はじめに
2014年に作曲した私の交響曲第5番《聖なる旅立ち》が九州交響楽団第352回定期演奏会において小泉和裕音楽監督の指揮によって演奏された(9月19日、アクロス福岡シンフォニーホール)。存命中の邦人作曲家の作品がプロの管弦楽団の定期演奏会で取り上げられるのはじつはたいへん稀なことで、2001年に福岡に移住して以降、九州交響楽団(以下、九響)のファンであった者としてはこれほどうれしいことはない。名誉であるとも感じている。
本稿は私の管弦楽作品についての解説である。もちろんその中心は《聖なる旅立ち》であるが、まずは自己紹介を兼ねてこれまでの私の作曲活動の概要について管弦楽作品を中心に述べる。次に私の作曲上の重要なモチーフとなっているインド起源の叙事詩「ラーマヤナ」について述べる。その際にラーマヤナをモチーフにした私の管弦楽作品を解説する。特に《聖なる旅立ち》については詳しく述べたい。最後には今後の管弦楽作品の作曲予定についても触れる。

管弦楽作品解説による自分史
私は1950年大阪生まれ。団塊の一年後の世代である。
私の作曲生活は大学入学時の1969年から現在の2016年までの47年間に及ぶ。その間に150曲ほどの作品を完成発表し、そのうち管弦楽作品を15曲完成させている。150曲の数の中にはNHKをはじめとする放送局や広告代理店などからの番組やイベントのための音楽、いわゆる機会音楽の数は含まれていない。
大学は愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻。そこで中田直宏先生に師事。中田先生は1960年代に福岡学芸大学(現・教育大)の教員として福岡にも住まれたことがあり、私の研究テーマ「忘れられた作曲家の再評価」の対象である福岡の作曲家今史朗(コン・シロウ、1904-77)とも親交があった。先生は学生をアカデミズムの枠に縛るようにするところが一切なく、実地に作曲経験を積むことをなによりも奨励された。おかげで1971年と73年の時にNHK・毎日音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)作曲部門に入賞することができた。
大学院では石井歓先生に師事した。石井先生は面倒見のよい方で、その勧めでドイツ政府の給費留学生(DAAD奨学生)試験を受けたところ合格し、ドイツ留学が決まった。15曲の管弦楽作品の中の最初の2曲は石井先生の下で作曲したもの。残念ながら未演奏・未発表。ただしそのうちのひとつ、1974年に十二音技法(1)</font size>を用いて作曲した《シンフォニエッタ》の出来が意外によいのに最近気付き、現在、改訂及び浄書作業中。
ドイツでは1974年秋から76年夏までミュンヘン音楽大学に籍を置き、ウィルヘルム・キルマイヤー先生に師事した。2年間のミュンヘン時代に私は2群の管弦楽のための《ウィンドゥズ》、独奏チェロと管弦楽のための《交響的庭園》という2つの管弦楽作品を作曲。キルマイヤー先生の世話でそれらはすぐに初演され、特に後者は放送された。いずれも前衛音楽を懸命に勉強した結果として、総音列技法(2)</font size>や音群技法(3)</font size>の影響をもろに受けた作品である。音群を形成するのに不確定性(偶然性)(4)</font size>の要素も取り入れた。
帰国後は音大受験生のレッスンと放送関係の作曲によって生活の糧を得つつ、作曲活動を続けた。活動拠点は出身地の関西。70年代終わりに交響曲第1番《アニマ》を作曲、1979年の日本交響楽振興財団第1回作曲賞佳作入選作品として東京で初演された。80年代初めには管弦楽のために《ジェネシス》を作曲、日本現代音楽協会「春の音楽展86」において東京で初演され、NHKから放送された。いずれもドイツでの勉強を反映させた前衛音楽である。
この当時、前衛音楽に夢中になっていたのは、私自身がヨーロッパの進歩史観に基づく音楽史に深く影響されていたからだ。クラシックの音楽史は作曲技法の歴史であるととみなし、そこに技法の進歩があるという考え方である。したがって技法的な新しい試みが存在しないような音楽には価値がないと私は思い込んでいた。新しい音素材、新しい構成法、新しい奏法、新しい記譜法などを追求することに高い価値を置いていた。
ところがそうした前衛音楽は弾くのも聴くのも困難である。演奏家はなかなか取り上げてくれないし、聴衆もほとんど聴きに来てくれない。また、新しい試みとは言うものの、真の意味での新しい試みが実現されている例はわずかであり、多くがいわば「前衛音楽という様式」に則って作曲されているに過ぎない。そのようなことに気づき始めてしまうと、これまでと同じようには前衛音楽と向き合うことができなくなってしまった。
管弦楽作品の作曲に関して、80年後半は私にとって迷いの時期であった。前衛音楽の音群的技法を用いつつ調性感を前面に出した管弦楽のための《ウィングス》や、前衛音楽から意図的に逃れようとしてあえてアカデミックな技法に則って作曲した交響曲第2番《トーテム》などがこの時期の作品である。様式的にはかなり混乱していた。この混乱を避けて私が取り組むようになったのがムジークテアター(5)</font size>である。舞台上の視覚的要素、主に演奏者やダンサーなどの身体動作を構成要素として取り入れた音楽作品である。音楽自体は前衛音楽風ではあるが、見るたのしみがあったためか、音楽という垣根を越えて聴衆が集まった。
90年代は管弦楽作品の作曲から手を引いていた時期である。もとより器楽作品全体からも手を引いていた。その代わりムジークテアターに夢中になり、さらにそこにコンピュータ音楽の要素を加えるようになった。特にコンピュータ音楽のインタラクティブ性(6)</font size>を重要視して、たとえば楽器に触れずともダンサーの踊りによって演奏することを可能にするシステムなどを開発し、舞台上の視覚的要素を拡大した。やがては視覚的要素が身体動作から映像に移行した。そして映像作品の形態でコンピュータ音楽を作曲するようになった。これを私は「映像音響詩」と呼んだ。その映像音響詩をこれまで20作品ほど作曲している。
2001年に九州芸術工科大学(現在の九州大学芸術工学部、以下九大芸工)に着任して福岡に居住するようになった。九大芸工では主にインタラクティブ性を重視したコンピュータ音楽、いわゆる「音楽系メディアアート」の教育研究創作に携わった。これは工学寄りの芸術表現である。しかし工学系の優秀な学生と付き合うことで私は自身のコンピュータのプログラミング能力に限界を感じるようになった。そのため、音楽系メディアアートを自身が創作するというよりも、学生の創作を補助・奨励することに重きを置くようになった。その反動のためか、私自身の創作活動はクラシックへ回帰した。10年以上ぶりに管弦楽作品に手を染めるようになったのである。

モチーフとしてのラーマヤナ
21世紀はじめの福岡は「アジアの文化的ハブを目指す」という合い言葉で、福岡市アジア美術館でのアジア美術展示の充実や、市役所前広場でのアジア・マンスリーの派手な開催、さらにはアジア映画祭などの全国に類を見ない企画がアジアの、特に東南アジアの文化芸術への関心をかき立てた。たしかに東京・大阪に較べ、福岡は東南アジアに近く、航空機を利用すると実時間では一時間ほど短い。この一時間の差がもたらす効果は絶大で、私の場合、東南アジア文化探訪の機会が増えた。その探訪の主対象はラーマヤナをモチーフにした美術と芸能であった。
ラーマヤナは3世紀頃のインドにおいて今日伝承されている形にまとめられた。その内容はインドのコーサラ国の皇太子ラーマの成長譚である。ラーマが、魔王ラーヴァナによってさらわれた妻シータを取り戻すために、ランカ島に渡り、ラーヴァナを撃ち破り、シータを無事に救い出すという物語である。様々な困難に対して敢然と立ち向かう勇気や強靱さ、さらには敗者にまで気くばりする優しさなどによってラーマは男子の理想像とされ、インドや東南アジアではたいへん親しまれている。ちなみにタイの国王は代々ラーマを名乗っていて、現国王はラーマ九世である。
登場人物はラーマとシータの他に、ラーマを助ける弟ラクシマナ、猿の将軍ハヌマーン、神鳥ガルーダ、魔王ラーヴァナの息子インドラジット、娘ソヴァンマチャなどがいて、さらにインドラ神やシヴァ神、ヴィシュヌ神などのヒンドゥーの神々も登場する。ラーマヤナの特徴は物語の細部にそれら登場人物個々を主人公にした様々なエピソードがあり、そのエピソードが独立して語られ、演じられ、造形されるところにある。
ラーマヤナはヒンドゥー教との関係が深いとされているが、東南アジアでは仏教国やイスラム教国であっても庶民の間に浸透している。仏教寺院の壁画やレリーフは釈迦一代記以上にラーマヤナが多く描かれている。またラーマヤナをモチーフにした舞踊劇はタイやカンボジア、ラオスの劇場で見ることができ、ラーマヤナの世界観を教えてくれる。私が特に惹かれたのはカンボジアの大型影絵劇スバエクトムである。ランカ島におけるラーマとラーヴァナの闘いのシーンだけを七夜にわたって上演する。夕方、日が沈むとともに椰子殻を燃料にした照明で浮かび上がってくる精緻な影絵人形は「永遠」を感じさせる。他にもバリ島のケチャは合唱によってシータの救出場面を描くが、その合唱の迫力は忘れ難い。
以上の造形美術や伝統芸能によって知ったラーマヤナの世界を、2001年以降、私はクラシックの様式で表現するようになった。曲数は30曲を超える。その中の3曲が管弦楽作品である。
2002年に作曲した交響曲第3番《レリーフの回廊》はカンボジアのアンコール・ワットの第一回廊のレリーフに着想を得た作品である。そこにはラーマヤナにおけるハヌマーン率いる猿群とラーヴァナ軍の戦いも描かれており、その戦いの様子をモチーフに第2楽章「神々の戦い」の一部を作曲した。西洋美術から見れば幼稚とも思われかねない同じ像の単純反復にむしろ得も言えない迫力を感じ、それを表現したのである。
2006年に作曲した交響曲第4番《ラーマヤナ〜愛と死》ではラーマヤナの骨子そのものを音楽で表現しようとした。それはラーマとシータの愛の物語であるとともに、その愛のための戦いで命を落とした敵味方の多くの犠牲者への鎮魂曲でもある。

交響曲第5番《聖なる旅立ち》
一般的にラーマヤナを題材にした芸能はラーマによるシータの救出というハッピーエンドで終わることが多い。ところがこの物語にはじつはその後に厳しい部分が続く。交響曲第5番《聖なる旅立ち》はこの厳しい部分に着想を得ている。その部分とは、幽閉された間の不貞を疑う国民の声に耐えきれなくなったシータが大地の裂け目に飛び込むシーンである。最終的にはシータは大地の神によって救出され、そのことで彼女の不貞は無実であることが証明される。シータが大地の裂け目に身を投じた瞬間が「聖なる旅立ち」に相当する。
この曲では大地の裂け目に身を投じるに至るシータをめぐる状況やシータの心情に着想を得ている。例えば、美しさゆえに魔王ラーヴァナに誘拐されるという不幸、魔王ラーヴァナの誘惑を敢然と拒絶する意志の強さ、幽閉中に募るラーマへの想い、ラーマとの再会の喜び、喜びが悲しみに一転するという理不尽、愛するラーマとの別れの悲しさ、他者のために我が身を捨てる高貴な精神、シータ自身の運命の苛烈さ、等々。これらが単独で、あるいは融合した状態で私に音楽的着想をもたらした。
しかし着想を得ていったん作曲をはじめると、物語を音で描くという思いは後退し、絶対音楽(7)</font size>としての音楽を構成することに関心が集中する。したがって、作品の音楽的内容や音楽的表情を物語そのものに無理矢理に関連づけて聴く必要はない。
曲は連続して演奏される六つの楽章からなる。第一楽章は速いテンポによってシータの苛烈な運命を、第二楽章は中庸のテンポの多様な楽想によって理不尽な運命に苦しむシータを、第三楽章はゆっくりしたテンポの淡々とした感じの旋律を中心にシータの静かな祈りを、第四楽章は速いテンポによって混乱した意識の中でのシータの追憶を、第五楽章は悲しみを秘めた旋律によって死を意識したシータの透明感あふれる決意を、第六楽章は速いテンポによって大地の裂け目に身を投げたシータの神による救出を、それぞれに表現している。

今後の作曲予定
独立した管弦楽作品ではないものの、管弦楽を用いた作品として私が作曲中であるのがロマンティック・オペラ《ラーマヤナ》である。2018年の初演を目指している。物語はラーマヤナの骨子、つまりラーヴァナにさらわれたシータをラーマが取り戻すという流れにしたがって展開する。台本は私自身の手による。2011年、作曲途中の室内楽版が演奏会形式で西日本オペラ協会によって一部初演された。その後、完成を急かされていたが、大学教員生活から解放された今年になってようやく本格的に取り組めるようになった。ロマンティック・オペラと称しているのは、歌うのも聴くのも難しい前衛音楽ではなく、ベルディのような親しみやすく美しいアリアに満ちたオペラを作曲したいという私の意欲の現れである。
それとともに、あともう一曲は交響曲を2020年までには作りたい。その時にはラーマヤナと並ぶもうひとつのインドの大叙事詩「マハーバラタ」をモチーフにしようと考えている。


(1)無調音楽を作曲するためのシステマティックの技法の一つ。一オクターブ内のすべての音高が偏りなく使用できるように作曲に先立って音列を設定する。
(2)音列が音高のみでなく、音長、音強 、音色などにも設定され、設定すること自体が作曲の重要な仕事となり、よりシステマティックに無調音楽を作ることができる。
(3)音楽を音高や音強、音強などの個々の要素でとらえるのではなく、響きの総体としてとらえ、その推移を音楽として構想する技法。
(4)作曲の段階で音高や音調を確定せずに、演奏の段階で演奏者によって確定される音楽であり、そのための技法。
(5)直訳すると「音楽劇場」。舞台上での演技などの視覚的要素を取り入れることによって音だけでは得ることができない意味やイメージを生じさせる音楽作品。
(6)コンピュータへの入力に対応してコンピュータが音楽的な出力を行う。入力と出力との関係が多様で意外性がある方が評価が高い。
(7)音による構成美そのものに価値を置く音楽である。物語などを描く標題音楽と区別する場合にこの語が用いられる。</font size>

(福岡文化連盟会員誌「文化」192号、2016年10月1日より、pp10-14)