毎日新聞が「九響は今」という2回にわたる記事を2010年の6月7月と掲載した。補助金を減らされて苦悩する九州交響楽団(以下九響)の様子を書いたもので,九響事務局長や作家の高樹のぶ子のコメントとともに,私のコメントも載っていた。新聞が地元の音楽文化を支える九響を応援する記事を書くのは当然のことであり,その記事の内容に異存はない。ただ,この記事の取材を受けたことによって九響をめぐるいろいろなことを思い出した。

5月下旬に約1年ぶりに九州交響楽団(九響)の演奏会に行った。シューマンチクルス<第1夜>である(アクロス福岡シンフォニーホールに)。驚いたのは聴衆が客席の半分も入っていなかったことである。定期演奏会でないせいもあろうが,それでもその少なさに驚いた。定期演奏会の方も曲目によっては最近は空席があると聞く。

2001年に福岡に越してから,福岡の都市としての規模が演奏会に通ったりするのにまさに適正規模であることを知り,演奏会に頻繁に足を運ぶようになった。九響に関しては定期演奏会の会員になり,毎回の演奏会をそれなりに楽しみにしてきた。場所は天神に比べて不便だったが,サンパレスでの定期演奏もけっこう盛り上がっていた印象を持っている。

それが1年前から行かなくなったのである。シューマンチクルスに関しては,普段滅多に聴くことの出来ないシューマンの管弦楽曲を音楽学的関心から聴きに行った。ただし今後もふたたびあまり足を運ぶことはないだろう。

この間,気付いたことがある。九響を聴きに行かなくても,私自身の音楽愛好生活に何の不自由も感じなかったことである。音楽自体はCDやDVDで聴くことができ,生のオーケストラ演奏が聴きたい時は外国のオーケストラの演奏を聴くことが出来るし,日本の他都市からもオーケストラがやってくる。音楽を聴くだけならばそれで十分なのである。福岡のクラシック愛好者の多くはそう感じているのではないか。

ただ,音楽愛好生活の質を高めるためには,音楽を聴くだけではもの足りない。音楽学者の岡田暁生は『音楽の聴き方』(中公新書)の中で音楽文化を創造するためには「きく」「する」「かたる」ことが必要と述べている。私見によれば,「する」は演奏する・作曲することだけではなくて,それらを積極的に「支える」「応援する」ということも含まれる。「かたる」は音楽愛好家内でのおしゃべりだけではなくて,批評・評論・報道として書かれることも含まれる。

九響に関して言えば,「きく」ことだけを対象にしていれば,それは代替可能であり,別に音楽愛好者は九響にこだわる必要はない。その意味では九響を対象に何かを「する」人が増えることが,九響に関心を持つ音楽愛好者が増えることになり,延いては九響の聴衆が増えることになる。ただし「する」人,すなわち「支える」「応援する」人を増やすことは,単に後援会員を増やすことではない。少しでも九響に興味を持ってくれる人を増やすことである。さらに踏み込んで言えば,九響を我がことのように思ってくれる人を増やすことである。

以上のように書くと,「ことはそんなに簡単ではない」という反論が返ってくるだろう。たしかにそうなのかも知れない。だとすれば,せめて「嫌われない」ようにすべきである。九響を嫌う人をつくっては絶対にならない。

私が九響の演奏会に行かなくなった理由は,1年ほど前,私が執筆した新聞批評に対して九響の事務局から電話で一方的に怒鳴られ,恫喝まがいの攻撃を受けたことによる。そしてこちらの言い分も聞かずに一方的にその電話を切られた。演奏家から文句を言われればまだ我慢はできる。しかし事務局から言われたのには驚いた。事務局はある意味では営業職ではないか。批評対象の演奏会のチケットを私は九響からもらったわけではない。自分で購入して入場したお客である。私はこのことで九響に関心を持つことが出来なくなった。九響の団員には友人も知り合いもいるが,九響を「きく」ことも,九響を対象に何かを「する」こともその気がなくなってしまった。まして九響を「かたる」ことなどとても出来なくなった(団員を応援するつもりで先日のシューマンチクルスを新聞批評で例外的に取り上げたが)。おそらく九響をめぐる窮状に苦しんでいる時に私の批評が気に障ったのであろう。しかし,対応には社会の常識,大人の常識というものがあろう。

「メジャーへのステップ」も結構なことである。九響の果たす福岡・九州の音楽文化への貢献は目に見えないところでもたいへん大きいと思う。しかし,それだけに人が九響への関心をなくすようなことを九響の関係者にはしてほしくない。心配なのは,私がされたようなことが,私だけにとどまらないことを仄聞することだ。

ことのついでに付け加えれば,「メジャーへのステップ」というネーミングは奇妙だ。メジャーへのステップは目指すものではなくて,日々の積み重ねの中で,自然になっていくものであるべきではないか。また外に向かって公言することではなく,自分たち内部での目標のようなものだろう。地元の人間にすれば,自分たちのオーケストラがメジャーではないと宣言されたようなもので気分のよいものではない。嘘でもメジャーだと言ってほしい。「これまでの感激に冷や水を浴びせかけられたような気分だ」と知人が言っていた。「ウチの味はまだ美味しくありません」と宣言するレストランに,だれが客として行きますか。

また「民族音楽の世界」は間違った用語法によるネーミングで,まことに恥ずかしい。クラシックに普通の関心を持っている人は,これで行く気がかなり削がれる。国民楽派との混同だろうし,西洋音楽中心主義を否定する意味で,今日,民族音楽は「世界音楽」と呼ばれる時代なのだ。

以上のように書いたことで,1週間前にふと思い立って授業の中で九響に関するアンケートをしてみた。今,本務校の九州大学芸術工学部の他に西南学院大学にも教えに行っている。まず,西南学院大学での私の授業「20世紀サウンドアートA」の受講者約50名に「九響の演奏会に行ったことがあるか否か」を尋ねてみた。すると行ったことのある者はわずか2名であった。1年生から4年生対象の選択授業である。けっこう芸術文化に関心ある学生が受講している。また九州大学芸術工学部音響設計学科2年生の私の授業「音楽理論表現演習」の受講者40名の学生の中でも九響の演奏会に行ったことのある者はわずか2名であった。彼らはいずれも音楽好きで,たいへん知的レベルの高い学生たちである。私の授業にも熱心に取り組んでいる。それにもかかわらず,約90名のなかのわずか4名である。この数字は何を意味するのであろうか。

私の印象では,潜在的な聴衆はけっこういる。授業をやっていてよくわかる。交響楽団の演奏会に足を運ぶきっかけがないままに,交響楽団との縁を失ってしまうのである。このことを九響の事務局はどうとらえるのであろうか。

クラシック音楽は西洋のものではなく,今や世界の共通文化である。一部エリートのためにものでもない。憲法で保証されている文化的な生活のためには,プロの交響楽団は福岡規模の都市においてはなくてはならぬものだと個人的には思っている。それだけに,もう少しなんとかならぬものかと歯がゆい思いである。