はじめに
私は2001年4月から2916年3月にかけての15年間、福岡市内の大学に勤務しながら作曲家として活動した。年齢で言えば50歳から65歳の間。「知命」(五十にして天命を知る)の歳に福岡での活動を始めたわけだ。
それにしても今の私は未だに「不惑」(四十にして惑わず)の域のはるか手前、惑いと焦りのど真ん中にいる。しかしだからといって自己嫌悪に陥っているわけではない。惑いと焦りは私の才能不足や努力不足だけがもたらしたとは思っていないからだ。まじめな作曲家はおのずと惑いと焦りに絡めとられてしまうのが現代の音楽状況だと思っている。
では、その音楽状況とはどのようなものか。この連載においてはそれを考えたい。考える対象となるのは私が関わっている「現代音楽」だけでなく、クラシックから大衆音楽、民族音楽、演劇・舞踏・映画などと結びついたマルチモーダルな音楽までを含む。初回は現代音楽を対象とする。
1.現代音楽の作曲家
現代音楽とは
自己紹介する際に私は「現代音楽の作曲家」と名のる。ところが「現代音楽」という言葉、時代を区分する語が付されているものの実際には時代区分の意味は希薄である。例えばAKB48の新曲を誰も現代音楽とは言わない。現代音楽とはクラシック音楽史において20世紀初頭以降に出現した無調音楽を全般的に指す言葉である。
私はこの現代音楽を45年も前から作曲し続けている。それ以前の学生時代はクラシック音楽を作曲していた。クラシック音楽史においては作曲技法の変遷を歴史の主要項目として把握する。単声音楽→多声音楽→和声音楽(調性音楽)→頻繁な転調→無調音楽→十二音音楽→、のように。そこでは無調音楽の出現は調性音楽からの作曲技法の「進歩」の必然であると認識される。
誰のための音楽
私はこれまで自作品の大半を自らが企画・運営するコンサートで発表してきた。そのコンサートにおいてプレ・トークやアフター・トークを行うことが多い。そこでは客席からの意見も聞く。その際に必ずと言ってよいほど客席から出るのが「現代音楽は一般の人にほとんど聴かれない。いったいあなたは誰のためにそれを作っているのか」という意見である。この意見は「難解な無調性の現代音楽を聴く人は圧倒的に少数であり、その少数の聴衆のために作曲するなんて理解できない」という思い込みから発せられる。
たしかに無調の難解な現代音楽を聴く人は少ない。現代音楽のコンサートを主催すると集客にはたいへん苦労する。それにもかかわらず、この100年間、難解な現代音楽はずっと作曲され続けてきた。さらに現代音楽を積極的にレパートリーに入れるすぐれた演奏家も一定数いる。熱心な現代音楽愛好者もいる。そこでは現代音楽のコミュニティも存在する。こうした事実をまずは知っておいてほしいと訴える。
誰のために作曲しているかという意見については「私はすべての人のために作曲している」と答える。なぜならばすべての人に私の音楽を理解できる可能性が潜んでいると考えるからである。「私は異星から来た人間ではない。私の発想はすべてこの世界の影響下にあり、その限りにおいてこの世界に住む人々に理解され得るはずだ」と説明する。
現代音楽はなぜ難解か
ところが前述のような強がりは言っても聴衆の少なさは憂鬱のタネだ。現代音楽が音楽史上に登場した時には、年が経つにつれて聴衆はそれに慣れ、クラシック音楽と同様に親しむことができると思われていた。しかしいつまで経ってもそうはならない。
では、なぜ現代音楽は難解なのか。その理由は感覚的にとらえづらいからである。そもそも人の感覚は「自然」と深く関係している。倍音構造と密接に結びついている音楽とそうでない無調による音楽とではあきらかに前者が、脈拍や歩行のリズムと密接に関連している音楽とそうではない非拍節的な音楽とではあきらかに前者が、それぞれ感覚的にとらえやすい。無調でしかも非拍節的要素に満ちた現代音楽はとらえにくく、場合によってはデタラメにさえ聞こえてしまう。そこに精緻な構成があったとしてもそれを聴き取ることなどはとても困難である。
その聴取困難な音楽をなぜつくろうとするのか。西洋では芸術を意味する単語は、「techné(テクネー)」「ars(アルス)」「Kunst(クンスト)」などのように、いずれも「人工」が語源となっている。芸術は自然と対峙する人工を意識することから始まる。芸術としての音楽では調性を超えて新たな人工の美を目指すことは当然なこととされ、だからこそ作曲家はより前衛的な無調性の現代音楽を追究してきたのである。
前衛的傾向への疑問
ところが私自身は福岡に移り住んだことを契機に徐々に前衛的な傾向に背を向けるようになった。私のつくる音楽は無調性が希薄になり、いわゆるクラシック音楽に近くなった。
その理由のひとつは現代音楽のコミュニティが福岡にはほとんどなかったからである。情報だけなら海外からのものを含めて雑誌やネットなどからも得ることはできるが、レスポンスがなければ情報のリアリティが失われてしまい、作曲上の刺激にはならない。
そしてより強い理由は進歩史観に疑問を持つようになったことだ。じつは技法の進歩は音だけでは十分には確認できず、むしろ楽譜として書き表された視覚情報によってそれが認識されることが多い。そうすると見た目が複雑で華麗で新奇な楽譜が重要視され、音楽でありながら音が置き去りにされることになる。そして技法に関する言説が音楽そのものから離れて一人歩きする。音を離れて音楽はない。
ポストモダンの考えが登場してから多少は揺らいではいるものの、進歩史的価値観の体系を現代音楽は未だ強固に保っている。作曲家としては前衛的傾向に背を向けると現代音楽のコミュニティからは高い評価をもらえない。私の惑いと焦りもここに起因する。
参照
音楽を生きる(福岡文化連盟会員誌連載2/4)
2.現代の作曲家
音楽を生きる(福岡文化連盟会員誌連載3/4)
3.見ることを取り込んだ音楽
音楽を生きる(福岡文化連盟会員誌連載4/4)
4.現代の作曲家(これからの作曲家人生
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