2.現代の作曲家
雑多ではなく豊かさ

前回の連載第1回目 のタイトルは「現代音楽の作曲家」だった。「現代の作曲家」という今回のタイトルとは何が違うのか。

前回は「現代音楽」という音楽ジャンルに論述の対象を限定した。そこでは進歩史観の中での私自身の創作に関する惑いと焦りの一端を告白した。今回は現代の日常の中で私が体験する雑多な音楽を対象とする。

今、思わず「雑多」と書いてしまったが、この雑多性はメディアの進化によって著しく加速した。放送とインターネットによって音楽に接する時間と音楽の種類は膨大になったのだ。雑多の中身のほとんどは大量消費を是とする音楽産業によってもたらされる。その大部分はドイツ語で言うところのウンターハルトゥングスムジーク(Unterhaltungsmusik)で、「気晴らしのための音楽」のこと。それに対して現代音楽やクラシックはエルンステ・ムジーク(Ernste Musik)と呼ばれ、「まじめな音楽」を意味する。いわゆる芸術音楽である。

人生のかなりの時期において私は芸術音楽のみにしか関心がなかった。私が作曲活動において目指していたのは新しい構造の音楽を作ることであった。それは音楽の概念の刷新をもたらすものでもあると信じていた。ところが、前回述べたように、音楽における構造の新しさの追究は耳よりも眼を重要視することが多く、結果の判断は耳ではなく文章の論理に頼ることが多い。そうしたことに居心地の悪さを感じ始めた頃に、「気晴らしのための音楽」を雑多としてではなく、豊かさとしてとらえるようになった。一九九〇年代後半以降のことだ。 そうなったのにはおそらく私の勤務先が関係していたと思う。九〇年代は美術系大学映像専攻の、二〇〇一年以降は芸術工学部の専任教員だった。教員・学生ともに音楽専門の者はきわめて少数。その環境下では芸術音楽の世界に閉じ籠もってばかりではおられない。さらに同僚たちの創作・研究上の刺激が私を芸術音楽から外の世界へ押し出した。

豊かさの中身

「気晴らしのための音楽」との出会いは私の場合も放送やインターネットを通してなされる。ここでまずお気に入り候補を発見する。しかしこれが意外に難しい。たとえば最近のNHK紅白歌合戦などでは絶対にそれは無理。幼稚で予定調和的な雰囲気の強制の下では音楽のよさを認識するどころではない。他の番組でも同様で、おそらく多くの出会いをスルーしていることだろう。

そうした環境下で私が豊かさを感じている音楽のいくつかを紹介する。いずれもかつては私自身が雑多として切り捨てていたものだ。紹介順はほぼ出会いの順番である。

  • 長渕剛《順子》《涙のセレナーデ》《ヒロイン》他:いずれも長渕のデビュー頃の曲。長渕のこの頃のメロディは短いモチーフの変奏反復を中心としたもので、声よりも楽器向きのメロディ。そのために詩にまつわる情緒が異化され、清新な印象を与える。またメロディの音域が広く、裏声を使った高音域には義太夫などの日本の古典からの好影響すら感じさせる。
  • 藤等則−IMA『ヒューマン・マーケット』:フリージャズトランペット奏者の近藤等則は京都大学の学生時代、学生運動のポスターや立て看板が乱雑に並ぶ荒れ果てた京大西部講堂でフリージャズをやっていた。七〇年代前半の頃である。偶然に私はそれを聴いた。まるでトランペットでアジ演説をしているようで、衝撃を受けた。後年、商業レーベルでCDを出すようになってからは随分とマイルドに聴きやすくなったが、それでも他のミュージシャンに見られぬ破壊衝動のようなものが息づいていて、お行儀のよい現代音楽などを吹っ飛ばす実験精神が時に私を刺激する。
  • 喜納昌吉&チャンプルーズ『BLOOD LINE(血統)』:メロディや歌詞(言語・内容)、音階、リズム、楽器、声などがいずれも地域(沖縄)色満点で独自の魅力にあふれている。それも単なる異国情緒としての魅力ではなく、地域の人々が育ててきた生活と結びついた芸能としての魅力である。歌詞に政治や歴史に関するメッセージが込められていることも現代日本の音楽においては貴重だ。
  • 井上陽水《少年時代》《心もよう》《ジェラシー》他:井上陽水の詞はそれだけを取り出してみても味わい深い。「青空に残された私の心」「さみしさだけを手紙につめて」「長い年月にふれたような気がする」等々、いたるところにイメージを豊かにかきたてる字句が散りばめられていて、それらが井上陽水の声の特質に巧みにマッチしている。声は言葉を盛る器であり、聴く者の感性を直に揺さぶる強烈な武器である。
  • Einstürzende Neubauten(アインシュトュルツェンデ・ノイバウテン)『Halber Mensch(ハルバー・メンシュ/半人間)』:ドイツの実験的バンドのアルバム。スクラップの金属片から作られた楽器や環境ノイズを使い、声もわざと悪声を用い、新奇な響きで満たす。音型の執拗な反復が原始的な祭祀・儀式を感じさせ、音楽構造も分かりやすいので、違和感を覚えない。むしろ悪声と環境ノイズは身近さへの発見を刺激する。
  • A.R.ラフマーン『ムトゥ・踊るマハラジャ』:大ヒット「マサラムービー」のサウンドトラック。マサラムービーとは物語や歌、踊りなどがごった煮のように混じり合ったインド版ミュージカル映画のこと。製作地域ごとに使用言語も異なる地域密着型映画なので、音楽も欧米ポップスのスタイルを借りながらも土俗性満載。反グローバル的発想がもたらす豊穣の音楽世界がそこにはある。
  • 渡辺真知子《かもめが翔んだ日》《唇よ、熱く君を語れ》《愛(いのち)のゆくえ》他:35年前に心ならずもアイドルとしてデビューさせられた渡辺真知子、今は還暦であることを自らアピールして旺盛なライブ活動を行っている。迫力ある歌声とトークが魅力で、「歌うことは生きること」を発信する。ライブ会場は感動的なミサが行われた教会と同様の雰囲気に包まれ、音楽の価値が「場」の文脈に依存していることを実感する。

以上は豊かさの例示の一部にしか過ぎない。雑多を豊かさとしてとらえるようになったことで私自身は確実に変わっているはずだし、次への展望が開けている気がしている。それについては最終回に述べることにする。次回は一時期私が熱心に取り組んでいた視覚的要素を取り入れた音楽作品について述べたい。