4.これからの作曲家人生

これまでを振り返って

今回が連載の最後である。

この連載の第1回目では「現代音楽の作曲家」と題して作曲家としての私の惑いと焦りについて述べた。「現代音楽」は現代の音楽ではない。「現代」とは時代を意味するのではなくクラシック音楽の一様式を意味する。その現代音楽の世界では「前衛」の姿勢が重要視される。私もかつて前衛であったが、今は前衛に背を向けているように見られている。 

2回目は「現代の音楽」に焦点をあてた。現代の音楽とは現代の生活の中で我々がごく日常的に接する音楽のことである。多くは「気晴らしのための音楽」であり、芸術音楽に対する大衆音楽のことである。かつて私はこれらを「雑多」とみなして意識することはなかったが、今では雑多を豊かさと感じるようになった。これらの中のいくつかを好み、創作上の刺激さえ得ている。そのことについて具体的なアーティスト名と楽曲名を挙げて説明した。

3回目は「見ることを取り込んだ音楽」として音楽劇の一種「ムジークテアター」と映像付きの電子音楽「映像音響詩」について述べた。いずれも作曲家としての私が取り組んできたジャンルである。私にとってはともに音楽作品だ。ところが「見ることを取り込んだ音楽」は一部の例外を除いて音楽界からはまともに評価の対象とされていない。音楽、特に作曲は視覚と大いに関係するはずなのに。

以上をふまえ、現代音楽の作曲家としての私がこれからをどう生きようとしているかを述べたい。

伝統主義の作曲家

一口に現代音楽といってもその実態は多様だ。音楽学者ホアキン・M・ベニテズは『現代音楽を読む エクリチュールを超えて』(朝日出版社、一九八一)において現代音楽を三つに分類している。それは「前衛音楽」「実験音楽」「伝統主義」である。この分類は音楽的外観の相違によるものではなく、作曲態度の違いによるものである。

「前衛音楽」は素材と構造を作曲思考の中心に置く。例えば第二次大戦直後の数年間のダルムシュタット夏期現代音楽講習会で喧伝されたセリー音楽、クセナキスの統計音楽、フランスのスペクトル楽派の音楽などが前衛音楽である。一般的には現代音楽を代表するのが前衛音楽と思われている。

「実験音楽」は結果ではなくてプロセスの提示そのものを作品と見なす。結果は偶然性に委ねられる。ジョン・ケージがその代表的な作曲者で、例えば彼の《想像上の風景》(一九五一)は一二台のラジオ受信機のための作品であり、二人の奏者がラジオ受信機の周波数とボリュームを操作する。操作の仕方は楽譜に細かく図示されている。楽譜通りに操作しても現実に聞こえる音響は、上演場所や日時によってラジオの放送内容が異なるため、同一の結果になることはない。偶然性に支配されるのだ。じつは実験音楽をその音響だけで聴き較べると前衛音楽との区別が困難なものが多く、両者は同一視されて間違って論じられることも多い。

「伝統主義」は感情や思想などの音楽外の表現を主たる内容とする音楽である。その音楽的外観は多様である。ただし現代音楽である限りはそれが伝統的な調性音楽であることはもちろんあり得ない。

私自身に関して言えば、前衛音楽については今でも関心はなくはない。ネットを通してよく聴く。ただ、それを成立させている共同体、特に日本国内のそれは私の肌に合わない。前衛音楽はその聴き手として音楽への知的理解可能な限られた聴衆しか想定していない。つまりその音楽実践は閉じられた世界の中の出来事でしかない。それを学術研究における学会になぞらえる向きもあるが、芸術実践と学術研究とは根本的に違う。

実験音楽は時に固定観念を揺らしてくれるような魅力もなくはないが、その制作に「技」を要しない点が私には面白くない。目先のアイデアだけを競うだけの感じがする。芸術の魅力のひとつにエクセレンス(卓越)があるが、実験音楽にはその要素が稀薄に思う。

私は伝統主義の立場で作曲する。ところが伝統主義を規定する特定の様式はない。往々にして古くさい前衛音楽が伝統主義とみなされることが多い。これは間違っている。古くさくても前衛音楽は前衛音楽であって、伝統主義の音楽と混同してはならない

伝統主義の音楽において、感情や思想を表現するために前衛音楽や実験音楽の要素を、さらに言えば伝統的な調性音楽や「気晴らしのための音楽」の諸要素を曲の中に取り込むことに私は躊躇しない。そしてそれらが雑多ではなく豊かさとなるように作品をつくろうとしている。

作曲中の作品、構想中の作品

今、いくつかの作品を作曲中であり構想中である。これらのいずれの作品においても私がつくろうとしているのは「音絵巻」である。そこでは感情や思想が、さらには物語が音響イメージに還元され、それら音響イメージの展開によって音楽が構成される。「音絵巻」は従来の音楽形式への安易な依拠を戒めるために想定した私的概念である。

2019年に発足する九州シティフィルハーモニック室内オーケストラ第1回定期演奏会(4月20日、ミリカローデン那珂川)のための委嘱作品《四季のラプソディ》の素材は唱歌である。唱歌誕生の裏に隠された国家主義思想と、それにもかかわらず唱歌が日本人のこころのふるさとに変容してしまった状況とを、唱歌に前衛音楽的処理を施して表現する。

毎年12月に北九州市ひびしんホールで催されている「音の杜コンサート」では、2019年以降、数回に分けて歌人・柳原白蓮を題材にした私の新作歌曲をプログラムに組み込む予定である。これは歌曲とはいうものの重唱を伴う室内楽であり、さらに映像や音響効果も加わる。最終的にはムジークテアター風の室内楽オペラにまとめる予定である。望まぬ結婚を強制された白蓮の命がけの恋愛を通して「生き抜く力とは何か」を表現したい。当時は人妻の不倫は犯罪であった。その白蓮を恋人として後に夫として支えた宮崎龍介の感情と思想も併せて表現することになる。

ここ数年来構想中なのが《交響曲第6番「銀河鉄道の果て」》(仮題)である。宮沢賢治の作品をテキストにした独唱と合唱と管弦楽のための大規模作品である。上演時間は一時間ほどを見込んでいる。賢治の作品世界へのオマージュである。賢治は法華経の信者であり、法華経に説かれている「永遠のいのち」を童話や詩で表し、みずからは永遠のいのちにつながる生き方を実践しようとした。賢治の世界を理解するために法華経の勉強をしなくてはと思いはじめている。聴取体験が法悦をもたらす法要として機能するような作品を目指したい。

改作・改訂への取り組み

以上の外にも作曲計画はいっぱいある。だが私は定年退職者であり、年金生活者である。芸術家は死ぬまで現役という妄想にとらわれてはいるが、世間的にはリタイヤした人間だ。体力の衰えを感じることはほとんどないが、人生には終わりがあるということだけは明瞭に意識するようになった。無制限に作曲計画を立てても仕方がないのだ。

そこで、これまで作りためた作品を整理して死後のためにきちんと残そうと考えはじめた。自分で言うのは憚られるが、けっこうユニークな作品をつくり、そのための上演イベントを企画実践してきた。それらの作品や事蹟が消えてしまっては勿体ないと心底思っている。

新たな作品の作曲と並行して、時間を見つけてはこれまで作りためてきた作品の点検・改作・改訂を行っている。また自作上演に関するデータ・資料を整理し、自作の録音録画記録をデジタル化し、作品解説を詳しく書き直している。私の死後における上演機会のためであり、中村滋延研究を行おうとする人のためである。

ああ、けっこういそがしく、充実の毎日。ありがたい。

 

 

音楽を生きる(福岡文化連盟会員誌連載 1/4) ①現代音楽の作曲家

音楽を生きる(福岡文化連盟会員誌連載 2/4) ②現代の作曲家

音楽を生きる(福岡文化連盟会員誌連載 3/4) ③見ることを取り込んだ音楽