<まえがき>

2000年3月にはじめてミャンマーを訪れて以来、再訪を望んでいた。ようやく今年2018年12月、退職記念夫婦旅行という名目で実現した。退職そのものは2016年3月だったが、諸事情で延期の連続で今頃に。

2000年の最初のミャンマー訪問の印象は強烈。その仏教文化、特に遺跡や寺院、仏像、人々の信仰の姿にうたれた。この最初の訪問時はバックパッカーとしてのひとり旅。ヤンゴン到着日の宿だけを決めただけで、その後の宿や移動の手配はすべて現地で行った。

参考:旅行記「2000年ミャンマーひとり旅」

今回は自分の年齢を考慮し、かつ夫婦連れということもあり、安心安全を優先させて旅行社主催の5泊6日のツアーに参加(12月11日〜16日)。参加者は我々夫婦の二人のみ。実質的にはガイド付きの贅沢な個人旅行であった。そのガイドのアイリさん(40歳代の男性)がたいへん教養豊かであり、かつ気のきく方で、書物からの情報だけでは気が付かなかったことを様々に教えられた。ちなみに彼はもと陸上中距離選手で1995年のユニヴァーシアード福岡にミャンマー代表選手として参加。その時の福岡の人たちのあたたかいもてなしに感動して、それ以来日本が大好きになったそうだ。

私にとっての18年ぶりのミャンマーは、軍事政権下の鎖国状態を脱して民主化されたことで、外見や雰囲気がすっかり変わっていた。ヤンゴンは現代的な大都市に一変。反面、交通渋滞がひどく、大気汚染もひどくなりそうだ。以前はほぼすべてのミャンマー人が着けていたロンジー(巻きスカート風のミャンマー民族衣装)も減っている。タナカー(ミャンマー独自の化粧品)を頬に塗っている人も多くない。バガン遺跡についても以前は放置状態で自由に寺院の上層階に登れていたのが、今回は禁止されていた。2年前の大地震の影響もあるが、観光用の整備が優先されているようだった。ただし全体に雰囲気が明るくなっていた。

現在ミャンマーはロヒンギャ問題で国際的非難をあびている。その時に観光客としてミャンマーを旅行することに若干のためらいがあった。しかしそのためらいを再訪意欲が上回った。現地の空気を感じることもロヒンギャ問題の実情の一端を知ることにもつながるとの言い訳をしつつ出発した。

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<日 記>

12月11日(火)

関空からベトナム航空でハノイへ。ハノイで乗り替えてヤンゴンへ。ヤンゴン国際空港は立派な国際空港へ大きく様変わり。以前は一国の首都の玄関口とは思えぬほど小さく、暗かった。職員もほとんどがロンジー姿。そして何よりも違和感を与えたのが強制両替。300米ドルをミャンマー国内でしか通用しない外貨兌換券として両替させられる。バックパッカーの貧乏旅行であってもこの300ドルをミャンマー滞在中に使い切ってしまわなければならなかった。今はビザも不要であれば、入国カードの記載も不要。

空港でガイドのアイリさんの出迎えを受け、夕食のレストランへ。じつにおいしいミャンマー料理。脂っこさも控えめで、辛さも感じない。

その後ホテルへ。一流とまでは言わずともそれに近い豪華なホテル。前回のバックパッカー旅行ではバスタブのあるホテルなどに一度も宿泊せず。ホテルのWiHiでインターネットもじつに快調。Facebookにアクセスしたらミャンマー文字のオンパレードで、びっくり。

12月12日(水)

早朝、飛行機でヤンゴンから仏教遺跡の古都バガンへ。すぐに飛行場近くのミンナント村へ。ここは遺跡の中の鄙びた村。なぜ最初にここに来たかと言えば、ここにはバガンの遺跡群を見通せることが可能な人工の丘があるからだ。以前は仏塔や寺院の上層階から遺跡群を見ることが出来たが、2年前の大地震被害によって仏塔や寺院の上層階に昇ることは禁止された。

その後、市場の近くにあるシュエズィーゴン寺院に行く。11世紀に建造。じつに規模が大きい。シュエは黄金の意味だそうで、まさに黄金に輝く立派な寺院。遺跡と言うより現在も信仰の場であり、生きた寺院だ。隣国タイからも信者の方々が訪れ熱心に祈りを捧げている。なおミャンマーの仏塔・寺院に入る際は参道から素足にならなくてはならい。タイやラオスでは本堂入場の際に履物を脱ぐだけ。ミャンマーは徹底している。

そこからガイドのアイリさんに連れられて車で遺跡めぐり。バガン遺跡は広大。この日は都合11カ所の仏塔・寺院を見て回った。各所の仏塔・寺院は先の訪問時よりも整備されていて、管理の人も多い。当然、観光客も増えていたが、多すぎるということはない。ゆっくりと見て回ることができる。

アーナンダ寺院は圧巻。以前は外壁が黒く変色していて重厚感があったが、今は修復されて明るくなっており、私は見間違えたほど。東西南北の参道の奥に安置された4つの巨大仏像も実に荘厳で美しい。

アーナンダ寺院の脇にミャンマーで亡くなった旧日本軍兵士の慰霊碑があった。祈りを捧げた。その後に城壁に囲まれたオールドバガンに入り、バガン遺跡で最も高い建物であるタビィニュ寺院に。そしてその近くのエーヤワディ川(イラワジ川)沿いのレストランで昼食。今は乾期であり、雨期にはレストランの真下まで川の水が来るそうだ。

昼食後にミィンガバー村のマヌーハ寺院に。マヌーハは王の名前であり、捕虜となってここに連れてこられ、捕虜としての鬱屈した気持ちを表した仏像を建立したと言われており、寺院の空間いっぱいに納められた仏像はたしかに窮屈そう。

さらにいくつかの仏塔・寺院にお参りした後、夕刻、オールドバガンから西へ1.5キロほど東の丘に行き、日の入りを拝む。この丘も大地震後に造られた人工のもの。外国人観光客だけでなくミャンマー人観光客も多く、女子高校生の団体もいた。仏塔・寺院が夕焼けの中に浮かび上がる様は感動的。

夕食はミャンマーの伝統的あやつり人形上演を見ながら。物語を見せるのではなく、人形の動きを見せることを優先した断片的な上演。操作はさすが年季のはいったもの。音楽は生演奏で、楽器編成や音楽的外観は東南アジア諸国(ベトナムとフィリピンは除く)に共通する。できれば食事をしながらでなく、きちんとした劇場上演の形態で鑑賞したい。

ホテルはニューバガンにあるコテージ風ホテル。ニューバガンはバガン遺跡保護のために城壁内のオールドバガン内の住民を強制的に移して造った村。ネット環境はWiFiはあるものの快適とは言えず。こんなところまで来てネットに縛られるのは馬鹿らしいと考え直し、以降、ほとんど触れず。

12月13日(木)

夜明け前にホテルを出発し、日の出を見にピャタダー寺院に参る。さすがに我々以外に誰もいない。夜明けを見るなんて何年ぶりか。自然の生命を感じる。遠くに観光客を乗せたバルーン(熱気球)が浮かんでいる様子も美しい。

朝食後、バガンから東南へ50キロのポッパ山の麓にあるタウン・カラッという岩峰に行く。タウン・カラッが有名なのはミャンマー土着のナッ神信仰の聖地であるからだ。タウン・カラッは標高約730メートル。そこに行くには777段の急な階段を登る。68歳の私も64歳のツレアイも休むことなく無事に登ることが出来た。頂上には仏塔・寺院とともにナッ神信仰の聖者のリアルな像が複数安置されている。

昨日の日の入り見物の際に知り合った女子高校生の団体と仏塔の前で遭遇。彼女たちから何度も記念写真を撮られた。ガイドのアイリさん曰く、日本人がめずらしいとのこと。

昼食はタウン・カラッを遠くに見るレストランで。岩峰の上いっぱいに寺院が建っている。どのようにして建築したのだろうか。

バガンに戻ってさらに仏塔・寺院の見学。来年の世界遺産申請に向けて環境整備をしており、そのために研究の手も入っている。寺院内の壁の漆喰を削るとその下に何層もの仏教壁画が発見できているそうだ。壁画で有名なスラマニ寺院と同様の、あるいはそれ以上の価値ある壁画の発見が予想されているようだ。

バガン最大の寺院と言われているダヤマンジー寺院を訪れる。建立者が親兄弟を殺した曰く付きのナラトゥ王であったため未完であり、その後も放置され、仏像も少なく、何となく気味が悪い。

ここで変わった民族衣装の集団に遭遇。ガイドのアイリさんも民族の判定できず。訊くとインドとの国境周辺に住んでいるチン族とのこと。ここでも日本人がめずらしいのか、何度も彼女たちの記念写真に加わることを求められた。

夕刻、エーヤワディ川をクルーズ。船の上から見た夕焼けは最高の眺め。いったいどうして日の入りと日の出に人は感激するのだろうか。

12月14日(金)

午前中にバガンからヤンゴンへ。昼食後、まずチャウッターヂー寺院へ。ここは巨大な寝釈迦で有名。庶民的な雰囲気のお寺。残念ながら修復中でそのお姿は竹の足場で覆われていた。それでもお参りの人は目についたし、周りの壁画や寺院の歴史写真展示などで見応えは充分。2000年の時には日本人の寄進者の名前がずらりと並んでいた。先の大戦の犠牲者の遺族の方々なのだろうと思う。

そこから車で市内見物。ヤンゴン中央駅から南側が旧市街。イギリス統治時代の立派な西洋建築がたくさん在り、碁盤目上に大通りが整備されている。首都が2006年にネピドーに移されたのでこれら西洋建築群には行政機能はすでにない。

そこからミャンマー最大級の寺院でミャンマー人の誇りであるシュエダゴォン寺院へ。エレベーターが整備されていて、参詣するのはらくではあるが、参道の階段を一つ一つ登っていくことによる参拝への心の準備過程が不足するのはさびしい。登りきった境内はとてつもない広さ。地元の信者やミャンマー人観光客もいっぱい。残念ながら中央の仏塔が金箔の修復のため竹の足場によって覆われていた。この寺院のよさはとにもかくにも明るいこと。仏様の顔も明るく優しい。そしていろいろな顔の仏様がおられる。また仏様に電飾が施されていたり、テレビモニターが祭壇に設置されていたり、自由だ。その自由さにはほんとうに癒やされる。

境内は地元の参拝者でじつににぎやかです。

金箔修復中の仏塔、今回これだけが残念。

境内のあちらこちらで祈る姿が。

仏像も至るところに。いったい何体あるのだろう。

派手にテレビ映像を映し出す礼拝堂。仏様に電飾も。

南側参道。エレベーターができたため,参道に人影が少ない。 

12月15日(土)

ミャンマー滞在最終日。この日はガイドの同道はなく、自由行動。これはこれでとてもうれしい。ヤンゴンの中心は車と人がいっぱいなので、すこしはずれた副都心のような位置づけの場所にいくことにした。ヤンゴン大学の近くで、若者の街といわれているレーダン。交通手段はミャンマー国鉄のヤンゴン環状線。

日本の中古車輌が走っているということからテレビ番組でも取り上げられたこともあるミャンマー国鉄のヤンゴン環状線。ただし乗車にかなり苦労した(この苦労がじつは旅のたのしみ!)。日本で調べた時刻表は役にたたず、ネットで調べた英語の時刻表もかなり怪しく、駅へ行けば何とかなるだろうと行ったが、驚いたことに駅(中央駅ですよ!)の案内や表示のほとんどがミャンマー文字のみ。駅の係員にも英語がほとんど通じず(ミャンマーはイギリスの植民地であったにもかかわらず意外に英語の通用度が低い)。若い賢そうなミャンマー人に訊きまくって無事に乗車。しかし降りる駅の見当がつかない。駅名表示のほとんどに英語が書かれていないからだ。それでも何とか無事に到着下車。

レーダンではショッピングセンターやマーケットを歩き回った。若い人が多かったし、大学の近くだけに本屋と文具屋が多かった。観光地でないところなのでミャンマーの人々の日常に触れた感じがした。

夕方、ヤンゴン国際空港からハノイ経由、機中1泊で関空へ。

<あとがき>

私にとってはこれまでの海外旅行はほとんどが自由旅行であった。今回は久しぶりのツアー参加旅行であったが、それがよかった。加えて季節がよかった。現地が乾期で雨に遭わず、現地では1年でもっとも涼しい時期。東南アジアの酷暑をよく知る身には何よりもありがたかった。

ミャンマー再訪ということである程度はミャンマーについての知識はあったが、現地の人によるくわしい解説はやはり本やネットからの知識・情報とは質量ともに違う。特に今回のガイドのアイリさんは的確な説明で、こちらからの質問にもほとんどに明確に応えてくれた。途中で政治的な話題にも話しが及んだが、政治的な考えは私とほとんど差異がなかったのでお互いに頷き合うことが多かった。ロヒンギャ問題についてのミャンマー人の立場についても理解できた。

ミャンマーの方々は先の大戦時の日本軍占領という不幸な過去があったにもかかわらず、日本・日本人に好意と敬意をもってくださっている。それだけに日本の改正入管法がその好意と敬意を失望と敵意に変えないことを祈る。