<総説風に>
2000年3月6日から13日まで,7泊8日のミャンマーひとり旅をした。本当は1999年秋に行くつもりであったのだが,その時にミャンマー政府の観光ビザ発給中止の措置があり,今回のこの時期になった。

民主化抑圧やアウンサン・スーチーさんの自宅軟禁などで知られるように,ミャンマーは軍事政権下で様々な問題を抱えている。その軍事政権の政策を支持することにつながるミャンマー観光などするべきではない,という声もある。しかし,ミャンマー国内の仏教寺院や仏像,バガンの遺跡などをどうしても見てみたくて,旅行することにした。

仏教寺院や仏像,バガンの遺跡などのすばらしさは予想以上であった。それとともに,ミャンマーの人々の穏やかさ,やさしさ,親切さも私を魅了した。仏教の信仰が生きているのだろう。熱心に祈る人々の姿はすがすがしい。それとともに寺院の存在感の大きさがすごい。そこが信仰の場であることはもちろん,憩いの場であり,癒しの場であり,テーマパークであり,遊園地でもあるようだ。

その反面,強制両替や有名寺院や観光地に入る度に徴収される外国人用の入場料(入域両)などには不愉快な思いをした。軍事政権の経済政策のまずさからくるせこさを感じた。特に交通機関には外国人料金が設定されており,国内航空運賃などは日本より高いかも知れない。それにもかかわらず,私は,強制両替のFECを使い尽くすためにやむなく飛行機を2度も使用することになってしまった。

ビルマは国連の指定で貧しい国の一つにされているとか。そうかなと思わせるところもないわけではなかったが,それ以上に潜在的な豊かさを感じさせるところがあった。人々の穏やかさ,やさしさ,親切さも,仏教的な価値観とともにそうした潜在的な豊かさによるところも多いように思われた。

軍事政権化の問題点についてはわずか8日間滞在の観光客には何も理解できない。バガンのホテルのレストランで働いてる大学生と話しした時に,大学が閉鎖されていることの現実の一端を知らされた程度だ。

今回の旅は,最初のヤンゴンのホテルのみ日本で予約しておいただけで,その他はまったくフリーの旅であった。一応,ヤンゴンからバガンとマンダレーを回るスケジュールを建ててはいたが,その通り出来るとはまったく思っていなかった。ヤンゴン-バガン間の飛行機チケットとバガンでのホテルだけは自分で探したが,それ以外の交通機関のチケットとホテルの予約は宿泊したホテルがすべてやってくれた。これは本当にありがたかった。おかげでスケジュール通りの旅が出来た。また値段も安く,その割りに設備がよく,世話も行き届いていた。つまりは旅が意外としやすかったのである。

なお,ビルマ人の顔立ちは私の予想以上に日本人に近いように感じた。ヤンゴンの都心部などでは明らかにインド系の顔立ちの人が目立ったが,パゴダ等で見るビルマ人は,色こそ黒いが,むしろ日本人よりも細面で,鼻立ちもすっきりとしており,目もぱっちりした人が多かった。美男美女系の顔立ちの人が結構目に留まったのだ。

いずれにせよ,観光客として上っ面だけを眺めてきただけなので,ミャンマーについての本質的なことについて何も言うことは出来ない。しかし,私にとって,これほど充実した思いをした旅は今までなかった。日常からの解放,精神的な癒し,異国の人々との出会い,遺跡や寺院めぐり,作品づくりのためのビデオ撮影,等の目的がほとんどすべて満たされたものであった。
ミャンマーの風光と人々に感謝。

<日記風に>
3月6日(月)
関空発TG623便でバンコクへ,そこからTG305に乗り換えて夕方にヤンゴン着。

一国の首都の国際空港とは思えないほどのひなびた空港。国際空港という華やかさとは遠く,全体的に暗い感じ。乗客もさほど多くなく,入国審査の列も短い。しかし意外に入国審査に時間がかかる。すべて手作業だ。ロンジー姿の空港職員を何人か見かけてミャンマーに来たことを実感する。

その入国審査を終えると,待ってました強制両替。一部の旅行者がそれを逃れるべく行動しようとしていたが,すべてそれらは阻止されていた。私も300ドルを300FEC(外貨兌換券)に替える。荷物を受け取って,税関での審査を経てミャンマー入国。

税関を出たところがタクシー申し込みカウンター。女性の職員がヤンゴン市内中央部まで8ドルと,あたかもそれが正規料金であるかのようにふっかけてくる。「2ドルのはずだ。ガイドブックに2ドルって書いてあるよ」と言うと,あっという間に3ドルまで下がった。


(ホテルの窓から見た夜のシェダゴン・パゴダ)

タクシーに乗って,日本で予約しておいたホテルへ。道は意外と広くてきれい。タクシーの運転手は愛想のよい人で,いろいろと観光スポットを解説してくれた。ミャンマーの人々はやさしくて親切という情報を到着後すぐに実感することになった。

ホテルの部屋の窓からはライトアップされたシュエダゴン・パゴダが見える。ホテルのカウンターで夕食分だけドルからチャットに替えて,近くのレストランへ。外へ出ると,いたるところにロンジー姿の人々が。そして顔にタナカ(ビルマ独自の日焼け防止の化粧品)を塗った女の人の姿が。それらにこれまで訪れた国々とは比較にならないほどの異国情緒を味わう。

3月7日(火)
朝食後,徒歩でヤンゴンのシンボル的存在のシュエダゴン・パゴダへ。途中,軍隊の兵営らしき建物の前を通ろうとすると,道路の反対側を歩けと銃を持った兵士に指示される。ここはやっぱり軍事政権の国だと通感する。なお,道を行き交う女性が皆,しとやかで清楚な感じがする。町並みは最貧国だとはとても思えない。

シュエダゴン・パゴダの入り口でガイド志願の女子大生(ちょっと女子大生にしては老けた感じがした)から,「5ドルでシュエダゴン・パゴダを日本語でガイドをする」と声をかけられるが,その割りには日本語がうまくなかったのと,パゴダ内を自由に歩きたかったので断る。ミャンマーでは大学が閉鎖されているとかで,大学生が勉強を兼ねてガイドをやっていることが多いと聞く。

入り口で裸足になり,長い参道の階段をあがって境内へ。


(シェダゴン・パゴダの参道)

黄金の塔を中心とするシュエダゴン・パゴダはすごい。大きい,広い,お参りの人がいっぱい。そして太陽にかがやく黄金の寺院群。と言っても高圧的なところは全然ない。また仏像の顔もじつに親しみが持てる。喩えは悪いが,寺院全体がテーマパークのような感じで,気持ちがなんとなくはずんでくる。また,裸足で境内を歩くのもじつに気持ちがよい。祈っている人々の姿の自然さも美しい。ここは訪れた者が気持ちが清々しくなる場所だ。ここがミャンマーの人々のあこがれの場所であることがよく理解できる。


(シェダゴン・パゴダの塔のひとつ)

境内で得度式の一行を見た。飾り付けられた少年とその親戚縁者の行列。なかなか派手だ。


(境内での得度式)

立ち去り難い思いを残しながら,シェダゴンパゴダからタクシーでボージョーアウンサンマーケットへ。まずは両替の場所をさがす。マーケット内の公認両替の看板がかかっている店でレートをいくつか尋ねてみるが,ガイドブックに書いてあるものより率が悪い(ガイドブックでは99年9月のレートとして1ドル350チャット,しかしマーケット内では1ドル320チャット)。そのうちの一軒で「乾季の今は観光客がいっぱいやってきて,安い率で両替に応じる必要はないんだよ」と言われる。納得できないので,両替商を集めて出来た新設の公認両替センターへ出かけることにする。

途中,ヤンゴン航空のオフィスを見つけたので,明日のバガンまでの飛行機の予約をする。コンピュータでオンライン化されておらず,すべて電話連絡で乗客リストも手書きである。こういうところに,私のようなものは旅に出ている実感を持つものなのだ。

公認両替センターでも若干率が良いだけで,ボージョーアウンサンマーケットとあまり変わらず(1ドル325チャット),こんなものかと思い,結局ここで両替する。(この両替センターのお姉さん,すごい美人でした。中国系だと思う。)
さて,ヤンゴン市内中央部はインド系の人が目立ち,また街並みがいかにもイギリスの植民地風で,東南アジアの街というよりもインドの街という感じがする(と言っても私はインドに行ったことはないのだが)。街歩きのおもしろい都市という感じがあまりしない。

昼食にビルマ料理店をさがしてビルマカレーを食べる。(この後も数回ビルマ料理店で食べることになるが,ガイドブックに書いてあったようにたしかに脂っこい。スープもいろいろな野菜がごった煮されている感じで,全体的に洗練された感じとは縁遠い。海外に出るとその地の料理を何でも一番おいしいと思ってしまうものなのだが,今回はややその感にあらず,といったところか。旅行の最後はシャンヌードル,つまりタイの麺料理の店ばかりで食べることになってしまう。)

ヤンゴン市内中央部のスーレーパゴダも訪ねたが,修理中で,パゴダがすべて板で覆われており,その黄金の輝きが見れず残念。

夜,ヤンゴンの西側の中国人の多く住む区域を訪ねる。インド人をほとんど見ず,町並みも中国商店や中国寺院もあって,ここではじめて,ヤンゴンの東南アジアの都市としての空気を感じることが出来る。

一日中ビーチサンダルで歩いていた足が夜になるとかなり痛くなってきた。ビーチサンダルがもともと擦り切れていたところへ,道のでこぼこ具合のかなりのひどさのせいである。

3月8日(水)
早朝6時の飛行機でバガンに向けて出発する。タクシーで飛行場へ着いた時,飛行場の職員らしき若い男がふたりタクシーまでやってきて,勝手に私の荷物を持ち,どんどんと搭乗の手続きを進めて,待合室まで連れていってくれる。しかし,その後そこから立ち去らない。私向かってしきりに何か言っている。チップを要求していることがわかる。無視していたがかなりしつこい。根負けする形でひとりづつに50円相当のチャットを渡す。金額はわずかだが,気分があまりよくない。以降,自分で持てる荷物はなるべく人には持たせないことにする。

さて,そのバガン。飛行機が着陸体制にはいると,無数のパゴダ・寺院の遺跡群が目に飛び込んでくる。ガイドブックに出ていた写真と同じ景色であることにむしろ感動を覚える。バガンの写真は,実物を見たことのない人間にはどこか非現実的に見えるもので,それが現実であったことに驚くのである。

飛行場の出口にたむろしている客引きの中から馬車タクシーを選び,ホテルまで運んでもらう。馬車に乗るのは生まれてはじめて。途中,その馬車タクシーの運転手(正確には馭者というのだろうけれど,タクシーだからやはり運転手だ)から,馬車の一日貸切とガイドを持ちかけられる。私は自転車を借りて勝手気ままにバガンのパゴダ・寺院巡りをしようと考えいたのだが,飛行機の窓から見た遺跡の規模の広大さを考えて馬車の一日貸切とガイドをお願いする。金額は交渉の上で9ドルに。ガイドブックには相場は7ドルと書いてあったが,日本の相場から考えるとあまりにも安いその値段に,それ以上の交渉をする気になれない。

その貸切の馬車タクシーで,その日の朝9時から日没まで,バガンの有名なパゴダ・寺院をほとんど案内してもらう。パゴダ・寺院の規模,パゴダ・寺院の造り,それらの数,仏像の姿,仏像の数,壁画の精密さ,大地にそれが点在している様とその眺め,これらがすべてじつにすごい。これを見ると,日本の京都や奈良は吹っ飛んでしまう。十五世紀のビルマ人の勢力(いや精力)のすごさに脱帽。個人的にはアーナンダ寺院が,特に仏像とその設置のされ方も含めて,一番感動的であった。


(アーナンダ寺院)

馬車タクシーはよかった。運転手は20を少し超えたばかりの若者で,英語もしっかり話し,要領良く遺跡を巡ってくれた。

3月9日(木)
泊まったホテルはコッテージ形式で清潔で静かで居心地がたいへんよい。朝食もオープンテラスで。給仕してくれたのが,非常に感じのよい若い男女。物静かで,上品で,きちんと世話をしてくれる。話してみるとマンダレー大学の学生で,大学が閉鎖されているため,ここでアルバイトをしているとのこと。ビデオで撮ろうとすると,写真と勘違いして直立不動の姿勢。「動いて,動いて」と声をかけても少しも動かない。ビデオを見せるとびっくりしている。


(バガンのホテルで働く大学生)

この日はホテルで自転車を一日借りきって朝からバガン中を走り回る。バガンと言っても,ホテルのあるニャンウー村(左の写真は朝のニャンウー村の情景)と,遺跡のオールドバガン,オールドバガンの南のミンガバー村,さらにその南のニューバガンからなる。広大な領域だ。さすが,ニューバガンまでは行けなかったが,とにかく,お尻が痛くなるほど,自転車で走り回る。主に前日に馬車で回ったところを再度訪ねる。今度は馬車タクシーを待たせる時間を気にすることなく,好きなだけひとつの場所で過ごす事が出来る。


(ニャンウー村の朝)

道ですれ違うビルマ人たちは気軽に挨拶を投げかけてきて気持ちがよい。ただし有名な観光地ゆえにパゴダ・寺院のみやげ物売りは観光客ずれしていてかなりしつこい。「お兄さん,かっこいいねぇ」と声をかけられると,買おうとする気が失せてしまう。

ミンガバー村のマヌーハ寺院の前のみやげ物屋蒹食堂のようなところで昼食をとる。この店の素朴な感じの娘さんがにこやかに気さくに話しかけてくる。日本のことを知りたがっている。そして,売り物である小さなアクセサリーを旅の無事を願ってプレゼントしてくれるくれる。こういうところではついつい余分に飲み物などを注文してしまう。


(ミンガバー村の土産物店の姉弟)

新設の考古学博物館も訪れる。やたらに大きいだけで,特に感想なし。必要ないのでは,と思ってしまう。

じつはこの日は私の娘の大学入試の合否の発表の日である。そのため,ミャンマーに来てから,寺院に参る度に娘の合格を祈願し,お金もわずかづつではあるがお布施箱に入れてきた。昼過ぎ,ニャンウー村の電話局に行き,国際電話で合否の結果を聞くことにする。電話事情はかなり悪い。何と電話ボックスの横では,職員がストップウォッチを持って通話時間を計っている。その電話の音声の悪いこと。かろうじて娘が「合格した!」と叫んでいるが聞こえてきて,それを何度も大声で私が繰り返して確認する。

合格の知らせが私の疲れを吹っ飛ばした。そして気持ちを異常にハイにする。途中,ニャンウー村の民家の塀越しに私に手を振ってきた若い女性たちのグループがあったので,自転車をとめてこちらからも話しかける。すると恥ずかしがって,そして明るく笑い転げている。最近の日本では見ることの出来ない反応。皆さん,なかなかの美人。庭ではその家の女性総出で葉巻づくりをしているところで,その様子をビデオを撮らしてもらう。


(葉巻作りの女性たち)

ホテルがバガンからマンダレーまでの航空チケットを手配してくれ,マンダレーでのホテルも予約してくれる。

3月10日(金)
マンダレー航空でバガンからマンダレーへ。バガンの飛行場でミャンマー入国以来はじめて日本人としゃべる。通訳ガイド付きのリッチな旅をしている中年のご婦人連中。10ドル(チップ込み)で馬車でバガンを回ったなどと言うと,私のことを随分羨ましがっている。

マンダレー空港に着くと,予約していたホテルの人が車で私を迎えに来てくれている。マンダレーの街は高い建築物がなく,全体に広々とした感じ。道そのものも広い。

ホテルは上品な老婦人を中心とした家族経営のこじんまりした言わば民宿風。この人は英語もうまい。ロビーに飾ってある家族写真のいくつかを見ると,由緒ある家のように思える。彼女のご主人も,小学校時代に習ったとかで,日本語が少し話せる。美人の若奥さんも親切で愛想がよい。


(子ども抱いているホテルの若奥さん)

自転車を借りて早速市内へ。まずはホテル近くのマンダレー・ヒルを目指す。王宮の東の堀の横を北へ走る。王宮の規模の大きさに驚く。道は広いが車が少なくて気持ちがよい。

マンダレー・ヒルの南の入り口から頂上まで長い階段の参道が続いている。そこを歩いて,1時間弱で登りきる。頂上のテラスは寺院になっており,ここから見下ろすマンダレーの街並が美しい。特に左手に見えるクドードォパゴダとサンダムニパゴダの白が美しい(写真はそのサンダムニパゴダ)。その反面,右手に見える新しいホテルの建物は醜悪。バガンでもそうであったが,世界資本によって建てられている大型リゾートホテルが,その地の風景を台なしにしていることが多くて,旅人としては何とも残念。


(サンダムニ・パゴダ)

自転車でマンダレーの街を走るのがじつに気持ちがよい。旧都でミャンマー第2の都会ということだが,じつにのんびりしている。旧型のバスや荷馬車が走り,まるで,昭和20年代の日本にタイムスリップしたよう。

都心部分から少しはずれるだけで住宅地になる。全体的に木が多く,家も木造で,低い生垣に囲まれていて,自然な清潔感がある。街のところどころにビルマ風の喫茶店があり,風呂場の腰掛けのような低い椅子に座ってのんびりとお茶を飲んでいる。とても平和な感じがして,心が休まる。そこに溶け込んでしまいたい誘惑にかられる。

3月11日(土)
この日も自転車でマンダレーの街をあてどなく走り回る。こうしたことが,わたしにとっては,旅の最も大きなたのしみのひとつ。

途中,セージョーマーケットに寄る。品物がぎっしり並べられている。安い。ミャンマーに来てはじめて土産物を買う。観光客ずれしていないせいか,店の者がしつこく売り付けてくることがまったくない。

昼はタイ料理(現地ではシャン料理という)の店を探して食べる。タイ料理の店が密集している所がある。混んでいる店とそうでない店の差が激しい。待つのが嫌なので空いている店に入ったら,やはり空いている理由がわかるような味だった。この店の若い女主人(だと思う)が,すごい美人で,「あなたは日本人か,私は中国人だ」と自分がビルマ人でもタイ人でもないことをしきりに強調していたのがなぜか不思議。

午後にマハムニパゴダに行く。本尊のマハムニ仏のまわりは参拝客でごったがえしているが,それ以外のところは人々がベンチでのんびりと寝転がっていて,私もそこで一時間程のまどろみの時間を持つ。


(マハムニパゴダ)

ミャンマーの大きいパゴダ・寺院には四方に長い参道がある。その参道の両脇には売店が並んでいる。境内に向かうとき,自分がどの参道を通ってきたかをしっかり確認しないと,境内から出る時に異なる参道を通ってしまい,居場所がわからなくなることが多い。マンダレーヒルの場合も,このマハムニパゴダの場合も,入ったときの参道と異なる参道を通って出てしまい,その後に停めておいた自分の自転車を探すのにたいへん苦労した。

夕方,夜行バスでヤンゴンに向かう。ホテルがバスのチケットも手配してくれ,またバスターミナルまで車で送ってくれる。バスは日本の路線バスを改良したもので,車内には日本語表示がそのまま残っている。

東京-神戸間と同じ距離を14時間かけて走る予定。(実際には16時間ほどかかってしまった。)夕食,夜のお茶,朝食付きで,わずか800円ほど。外国人料金が設定されていないバスは信じられないくらい安い。強制両替の300FECがなければ全般的にかなり安く旅行できる国だ。

バスはほぼ満員。外国人らしき人は私だけで,あとは皆ビルマ人のよう。皆さん,おとなしく,行儀もよく,安心。夕食や朝食はドライブインのような所に下車していただく。夕食のビルマ風カレー,朝食の中華風炒飯は意外とうまい。

3月12日(日)
ヤンゴンのバスターミナルに到着。宿泊予定ホテルの人が迎えに来てくれている。
ホテルはヤンゴン市内東にある家族経営の民宿風。実はLonely Planetのミャンマー編を執筆したライターは,このホテルを根城にして取材をしていたとかで,一部のミャンマーフリークの間では有名ホテル。経営者はあきらかに中国系の人で,このホテルもじつに親切で対応もよい。部屋も清潔。

夜行バスの疲れを2時間ほどの仮眠で吹っ飛ばして,ボウタタウンパゴダへ。庶民のお寺といった趣のパゴダ。仏さんの顔もきわめて庶民的で親しみやすい(ミャンマーの仏像はだいたいにおいて親しみやすいお顔をされている)。塔の中が鏡の迷路のようになっており,まるで遊園地のよう。たのしい。事実,回る仏像にコインを投げるというようなゲーム形式の祭壇があったりする。


(ボウダゴン・パゴダでの仏像)


(ゲームのような賽銭入れ)

ボウタタウンパゴダを出てからは,近くを流れるイラワジ川を見に行く。
昼食後,寝釈迦仏で有名なチャウッターパゴダへ行く。大きい。お顔が見る角度によって随分異なって見える。寄進者の名前が境内に掲示されている。日本人の名前が随分多いのに驚く。先の世界大戦の関係だろう。


(チャウッター・パゴダの寝釈迦)

チャウッターパゴダから国立博物館へ。観賞者が少ない。照明が少なく,展示の内容によってはちょっと薄気味悪い。中に,ビルマ最後の王であるティーボー王関連の展示があり,その悲しそうなで自信なげな顔の表情が何とも印象的。一つの勢力が衰える時は,その衰えを象徴するような顔の最高権力者が出てしまうのか。

3月13日(月)
ミャンマー滞在の最後の日。
どうしてももう一度シュエダゴン・パゴダを見たくなり,タクシーで出かける。様子がわかっているので境内の一つ一つの場所で,ゆっくりと時間をつぶす。至福の時間。途中で一人旅のドイツ人の中年婦人と知り合いになる。日本人からドイツ語を聞くとは思わなかったようで,びっくりしてた。

昼過ぎ,ヤンゴン空港からTG306便でバンコクへ。ヤンゴン空港は本当に何もない空港。免税店で買い物をと思っていたが,まったくあてが外れる。ヤンゴン空港待合室でシュエダゴン・パゴダで知り合ったドイツ婦人と偶然出会い,彼女の旅の話しを聞かされる。1ケ月以上の日程でタイ,ラオス,カンボジア,ミャンマーと一人で回ってきたとのことで,8日間の旅行が精一杯の私としては羨ましいかぎり。

バンコクからTG622便で14日の朝,無事,関空着。
中身の濃い,充実の旅行であった。次は必ずツレアイと一緒に来ようと思う。