<サイレント映画の音を聴く>
映画史の初期に制作されたサイレント映画を現時点で鑑賞する際、音楽がつけられたヴァージョン、いわゆる「サウンド版」が提示されることが多い。私はそうしたサウンド版を好まない。たいていの場合、私は音を消して鑑賞する。その方が映画制作時における映画作家の「工夫の跡」が感じられ、その作家の発想や構成についての理解をより深く得ることができるからである。何よりも、その方が「音」をより集中して聴くことができるからである。そう、まさにサイレント映画の音を。
多くの人々はサイレント映画には音の表現がないと誤解している。そうではなく、実はサイレント映画には音が満ちているし、すぐれた映画作家は様々な工夫を凝らして音を表現している。本稿ではそうした例を紹介する。それを通してサイレント映画における豊かな音の世界の一端を知っていただきたい。
なお、断っておかねばならないのは、制作された時代におけるサイレント映画の上映はたいてい音を伴っていたという事実である。例えば、音楽は小編成の楽団やピアノ独奏よって映画の進行に合わせて実演された。物音は楽器や擬音装置によって鳴らされることもあった。時にはナレーターの口真似によって提示されることさえあった。話し言葉はナレーターによって語られた。特に日本ではそれは「活動弁士」と言われ、「芸」として確立した。ただし、映画作家がこうした上映時の音を制作時に意識することは少なかった。仮に意識したところで、それが意図通りに実現される保証はない。それは上映現場に委ねられる領域であり、映画作家の考慮の外であることが多かった。

<サイレント映画における音とその種類>
リュミエール兄弟による初の映画《工場の出口》《列車の到着》(1895)を見た時の人々の驚きは、画面の中で人物や列車が動いているにもかかわらず、音が鳴っていないということにあったとされている。このことは、我々が物の動きを見るとその動きに伴う音をおのずと想像することを示している。したがってサイレント映画は無音の映画ではなく、観客の想像の中では音が鳴っているのである。
ただし、想像することが容易な音と、そうではない音との違いがある。想像することが容易な音は画面にその音源が示されている場合である。これは「インの音」と呼ばれる。容易でないのは、音源が画面に示されていない音である。作曲家・映画作家のミシェル・シオンはそうした音を「フレーム外の音」と「オフの音」に分類している。
画面に示されていない音のうち、画面の枠外に音源があきらかに存在すると想定される音が「フレーム外の音」である。これは映画における現実の音である。例えば森の中を歩くシーンで遠くに聞こえる小川のせせらぎや木々の向こうから聞こえてくる鳥の声などがフレーム外の音である。
「オフの音」は画面の枠外にも音源が存在するとは想定できない音である。映画における非現実の音である。例えば劇中の人物が心の中で思い起こす音・声やある概念を託された物音、例えば時間の切迫を表す時計の秒針の音など、がオフの音である。
フレーム外の音もオフの音もトーキー(映像と音が同期した映画)なら何の苦もなく観客に聴かせることができる。では、サイレント映画の作家たちはそれらの音をどのようにして観客に聴かせたのであろうか。

<見えない音源から音を想像させる>
セルゲイ・エイゼンシュタイン(1898-1948)は『戦艦ポチョムキン』(1925)において、ある音源の映像を複数回にわたって挿入することで、それが表す音をオフの音として観客に聴かせるようにした。一例を挙げれば「スープを煮る音」である。この映画の前半では水兵たちが蛆のわいた肉を食べさせられたことが原因で反乱を起こす。蛆のわいた肉が入ったスープが水兵たちの劣悪な待遇の象徴となる。そのためにスープを煮る音をあるシークエンス全体を通して聴かせる必要がある。エイゼンシュタインはグツグツと煮えたぎるスープ鍋の短いショットをシークエンスの中に繰り返し挿入した。結果、観客はスープ鍋が提示されていないショットにおいてもグツグツという音を意識する。
アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)は『下宿人』(1926)において、2階に住む下宿人の足音を階下の住人が耳にするシーンをトリック映像によって表現した。それは厚いガラス板の上を歩く姿を下から撮った映像であり、画面には歩く靴底のみが見える。この映像は、階下の住人が視線を上に向けた時に提示される。ガラス板による床や天井が実際に存在するわけがなく、こうすることによってフレーム外の音の音源を提示したのである。しかし考えてみれば、2階の足音が階下に漏れ聞こえるような建物に下宿人を住まわせるわけもなく、足音は下宿人が殺人犯ではないかと疑う階下の住人の怖れを象徴しているとも解釈できる。この場合だと、足音はオフの音になる。
小津安二郎(1903-1963)は《東京の女》(1933)において、恋人の自死の連絡を電話で受けて混乱する少女の心理を、多数の時計の秒針の交錯音によって表現する。少女は電話を時計店で借りている。時計店の壁には物語の流れから言えば不自然なほど多くの時計が掛かっている。観客はその映像から秒針の強烈な交錯音を想像する。この秒針の交錯音は時計の映像が映し出されていないショットにおいても容易に想像することができる。フレーム外の音としての体裁を繕っているが、混乱する心理を強調する音であり、オフの音である。
チャールズ・チャップリン(1889-1977)は『サニーサイド』(1919)において音をモチーフにした笑いを表現した。チャーリーは思いを寄せる娘の前でオルガンを演奏する。彼が鍵盤を押すと変な音が鳴っているらしい。彼は何度も鍵盤を押して音を確かめ、その度に首をかしげ怪訝な表情を見せる。ふと気付くとオルガンの背後から子ヤギが顔を出している。その変な音は子ヤギの声であったという落ちがつく。この落ちはトーキーでは成立しない。音源の映像提示によってのみ音が示されるサイレント映画こそがもたらす「笑い」である。

<動きを見せることで音楽を表現する>
我々が映画という名で一般的にイメージするのはまず物語映画であり、次いでドキュメンタリー映画であろう。いずれも事物をそのまま写し撮ることができる「実写」を活かした領域である。じつはそれ以外に「絶対映画」という領域がある。1920年代にドイツを中心に展開されたものであり、実写ではなく「描画」による映画である。描画の対象は主に抽象的な図形である。
この時代の造形作家たちが映画に感じた魅力は、「形」が時間軸上で動くというものであった。一部の造形作家は「動く造形としての映画」を目指すことになる。
ハンス・リヒター(1888-1976)は《Rhythm21》(1921)と《Rhythm23》(1923)において幾何学的な図形を素材に、その出現と消滅、配置、大きさの変化や動きによる映画を制作した。彼はそれを絶対映画と呼んだ。クラシック音楽における絶対音楽のアナロジーである。音楽と同様に、具体的な意味を持たない構成(=コンポジション)そのものが作品の内容となる。
ヴィキング・エッゲリング(1880-1925)は《Diagonal Symphony》(1921)において抽象的な図形を素材に、リヒターと同じように絶対映画を制作した。彼はその作品を「抽象図形のオーケストレーション」と呼んだ。図形を楽器になぞらえ、図形の組み合わせを管弦楽における楽器の組み合わせのアナロジーとしてとらえた。
ワルター・ルットマン(1887-1941)は《Opus 1》(1922)において リヒターやエッゲリングと同じような絶対映画を制作した。彼自身はその作品を「抽象図形の即興」と呼んだ。
以上の絶対映画のタイトルを見て感じるのは、そのいずれもが音楽作品のタイトルに影響を受けていることである。「リズム」や「シンフォニー」、音楽の作品番号を意味するイタリア語の「オーポス(Opus)」、など。実は彼らは動く造形によって「音のない音楽」を表現しようとしたのである。図形の出現頻度、図形の位置(特に視覚的な高低)、図形の大きさ、図形の動きの速度、異なる図形同士の絡み合い、一連の動きの反復など、それらを音楽の構成要素に見立てた。
そうした中でオスカー・フィッシンガー(1990-1945)はその創作活動をトーキーの時代になってから始めたため、リヒターたちとは異なり、音楽を用いた絶対映画を多く制作した。その彼が自身の映画様式の到達点と位置づけた作品がサイレント映画の《Radio Dynamics》(1942)である。タイトル画面に「Please no music!」と明記されている。実際の音楽に頼らなくても「動く造形」だけで音楽を表現できる段階に到達した、とフィッシンガー自身は考えたのではないか。モノクロからカラーになっていることも奏功し、まさに動く造形によって音楽を奏でている。実際の音楽に較べて欠けているのは和声の要素くらいであろう。

<サイレント映画に音を新たにつけるには>
冒頭の繰り返しになるが、サイレント映画は映画作家の意向とは関係なしに音楽がつけられたヴァージョン、いわゆるサウンド版が提示されることが多い。私はそのことを好ましく思っていない。理由はすでに述べた通りである。
しかし、サイレント映画に音や音楽を新たにつける試みを一概に否定するつもりはない。映画作家の「工夫の跡」をしっかりと検証してその価値をより高めるようなものであれば推奨できる。その場合、音楽が新たにつくことで、映像の細部に観客の集中を導いてくれるようなものであってほしい。あるいは、あえて映像を音楽聴取の際のイメージ喚起の刺激剤として用いるだけに留め、音楽そのものへの観客の関心を集中させるようなやり方もあるかも知れない。要は、欠けているものをただ補うという発想で音や音楽をつけることは避けたい、それだけである。

*日・EUフレンドシップウィーク2014『カメラを持った男』アクースモニウム上映(2014/5/8、同志社大学寒梅館)の解説パンフレット掲載原稿より