「音楽季報」 中村滋延
西日本新聞2015年7月14日朝刊文化欄
九州交響楽団第342回定期演奏会(7月6日、福岡シンフォニーホール)を聴いた。「平和祈念コンサート」と題され、前半が大戦中の悲劇に想を得た三善晃「夏の散乱」「焉歌・波摘み」とバッハ/レーガー編「おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け」の3曲、そして後半がアルフレード・シュニトケのオラトリオ「長崎」。指揮は下野竜也、アルト独唱は池田香織、合唱は九響合唱団。
この定期はオーケストラ活動を支援する「アフィニス文化財団」から「わが国ならびに各楽団が活動の重点を置いている地域の音楽界にとって意義がある企画」として「アフィニス・エンブレム」に認定されている。まさにそれにふさわしい内容。バッハ以外は一般にはなじみのない現代音楽ばかりであったが、会場は熱気に包まれ、終演後もなかなか拍手が鳴り止まず、聴衆間に深い感動が共有された。
この感動は、平和への祈りとしての演奏会が現代音楽の上演を中心とすることによってもたらされたように思う。平和への祈りは時空をこえた普遍的なものであるが、戦争の悲劇を身近な体験として描いた現代作品は平和への祈りに強烈な現実感をあたえる。それに加えて前半の3曲をまるで一つの作品のように続けて演奏したプログラム構成も絶妙であり、身近な体験がバッハによって人類全体への祈りに昇華された。
後半のシュニトケの作品は彼が23歳の1958年にモスクワ音楽院の卒業作品として作曲したものである。三善晃の円熟期の熟練の技と繊細な表現に比べると荒削りだ。しかしその分ストレートに長崎の原爆投下の悲劇をめぐる様々な状況と感情を描き出している。この時期、シュニトケはショスタコーヴィッチの影響下にあった。劇的な表情に満ちた楽句の多用とその展開法の卓越性と、そしてショスタコーヴィッチにはない現代的曲想によって聴き手を飽きさせることがない。現代音楽でこのようなことは稀だ。
しかしなによりもこの演奏会に熱気と感動をもたらしたのは下野竜也の存在である。演奏至難な現代音楽を深く理解し、正確な指揮技術によって九響から密度の高いすぐれた演奏を引き出した。前半をひとつの作品として提示するアイデアも演奏会の演出として創造性に満ちたもので、簡潔なプレトークとともに聴衆の音楽への集中をうながした。
その下野が指揮した松村禎三のオペラ「沈黙」の舞台形式上演を聴いた(6月27日、東京新国立劇場)。このオペラに関しては長崎での演奏会形式上演を聴いており(2月15日、長崎ブリックホール・大ホール)、このことが舞台形式上演にも足を運ばせた。物語の舞台は長崎である。神の沈黙をめぐっての若いポルトガル人宣教師と棄教した元宣教師との間で繰り広げられる緊迫のやりとりは、舞台上での視覚的要素があってこそ深い理解と感動を得ることができる。長崎の地においてもこのオペラが舞台形式で再上演されることを切望する。それも下野の指揮で。
シュニトケの《長崎》と松村の《沈黙》に共通する魅力のひとつが人の声である。声は言葉を運ぶ媒体であり、身体と結びついた最も身近な楽器でもある。そうした声の魅力をあらためて教えてくれたのが『加耒徹バリトンリサイタル2015 in Fukuoka』(6月27日、福岡市中央区のあいれふホール)。加耒は若手のバリトン歌手として注目を集めている。今年11月には日生劇場オペラでモーツァルト「ドン・ジョバンニ」のタイトルロールを歌う。
今回のリサイタルではプログラム構成に注目した。選曲が多彩なのである。前半はドイツリート、後半は宮沢賢治の「星めぐりの歌」と山田耕筰の歌曲集「ロシア人形の歌」からラフマニノフの歌曲やロシア民謡メドレー、ロシア歌劇のアリアまで。ドイツリートとロシア民謡に惹かれてやってきた聴衆は、そこで宮沢賢治や山田耕筰との思わぬ出会いを体験する。聴衆に新たな音楽の魅力を知ってもらうためにこうした出会いの場の設定は大切だ。そこで何を提供することができるかに演奏者の音楽観と力量が問われる場でもある。加耒は抑制の利いた美しい声による演奏だけでなく、そうした面での力量も示した。