音楽季報(西日本新聞4月15日朝刊文化欄)

松村禎三作曲のオペラ《沈黙》を演奏会形式で聴いた(2月15日、長崎ブリックホール・大ホール)。遠藤周作の原作を作曲者自らが台本化し、13年の歳月をかけて作曲した。初演は1993年。今回は新国立劇場の制作、演奏は下野竜也指揮による九州交響楽団。歌手陣は主人公ロドリゴに小原啓楼、他に小森輝彦、枡貴志などの二期会を中心としたメンバー。
キリシタン弾圧が激しい長崎近郊の漁村を舞台に、迫害された教徒を救うために密航してきたポルトガル人宣教師ロドリゴの受難の物語である。その悲惨きわまりない迫害の様子に沈黙したままの神に対し、ロドリゴは「あなたは本当におられるのか」と絶望の問いを発する。
オペラの大衆性とは相容れないような深刻な物語なのだが、日本の現代オペラにはめずらしく再演を重ねている。それはひとえに松村禎三の音楽の質の高さによる。物語の起伏を強調し、不協和音に満ちた現代的な音感を中心としながらも、聴き手の集中を巧みにかき立てる緊張と緩和を随所に置く。場面によってはやさしい旋律も取り入れて親しみやすさへの配慮も忘れない。管弦楽法についても表現の幅が大きく、色彩も豊かで、演奏会形式で聴いても飽きることがない。
すでにこのオペラを経験している下野竜也の指揮は自信に満ちたもので、表現したい音楽内容が明確に伝わってくる。それに応える九州交響楽団もひじょうな熱演。歌手陣もすばらしかった。何より感心したのは歌手達が歌う日本語が聴き取りやすかったこと。このことがオペラを堪能した気分にさせた。
直後に地元の放送局がこの公演の様子をニュースで取り上げたが、作曲者松村禎三の名前は一切出てこなかった。じつはこれに類したことをこれまで何度か経験している。オペラは総合芸術であるが、軸になるのは作曲家の書いたスコアであり、それが作品としてのアイデンティティを示す。作曲者名を大切に扱ってほしい。
作曲者名が喧伝されていることで、客の入りを保証するのがヴェルディのオペラである。大分iichikoグランシアタは大分県立美術館開館記念大分オペラフェスティバル「二期会オペラ」と題して、ヴェルディ作曲の《リゴレット》(2月25日)と《オテロ》(3月14日)を上演した。そのうち前者を聴いた。
パルマ王立劇場との提携公演ということで、演出・舞台・衣装・照明などがすべてイタリアから持ち込まれ、まさに豪華絢爛、じつに贅沢な時空間がそこに立ち現れた。それらは物語の時代背景や社会状況をリアルに伝える機能も併せ持っていた。イタリアの若手指揮者バッティストーニは劇的効果を強調して聴き手を存分に惹き付けた。トスカニーニの再来との噂は嘘ではない。タイトルロールを歌った成田博之はじめとする歌手陣もじつに聴き応えがあった。
ただ、聴衆の反応は控えめ。それがなんとなく感動に水をさした。舞台芸術における盛り上がりは舞台と客席との交歓が醸成するもの。ライヴにおける聴衆参加の重要性を再確認させられた。
ところで音楽史においてオペラは重要な役割を果たしている。ルネッサンスからバロックへの変化を導いたモンテヴェルディのオペラはモノディ様式(旋律と和音による音楽)によって和声音楽の出現をうながした。ワーグナーのオペラ(楽劇)は頻繁な転調や無限旋律を用いることで、現代音楽に通じる無調音楽の出現をうながした。いずれも劇のための表現が音楽表現の変革を刺激した。
オペラではないが、そうした例を思わぬところで発見した。「踊りに行くぜ!!II vol.5」(イムズホール、2月28日)における桑折現のダンス劇《To day》。
舞台には窓枠を想像させるような抽象的なオブジェが設置されている。2名のダンサーがそれに絡んで行く。何の脈絡も感じさせないそれらの動作に意味づけし、イメージをかき立て、かつ音楽的にもまとまりを感じさせる流れをつくり出していたのが中川裕貴のチェロと山崎阿弥の声である。舞台上で発せられるそれらの音は様々に電子的変調が施され、創造性に満ちたすぐれたライブ・コンピュータ音楽としても自立し得るもので、私は深い感動を覚えた。