西日本新聞2015年1月16日朝刊掲載
九州交響楽団(以下、九響)の次年度の定期演奏会の上演曲目が発表された。「名曲・午後のオーケストラ」という新シリーズとの差別化を図るためであろうか、20世紀以降に作曲された作品が増えた。全9回の演奏会で28作品が上演される中、12作品、つまり4割以上が20世紀以降に作曲された作品である。三善晃や武満徹などの日本人作品も選曲されている。これは能動的聴衆にとってはひじょうに喜ばしい。
かつて社会科学者の矢野暢は『20世紀の音楽』(音楽之友社)の中で、クラシックのコンサートがいわゆる「名曲」に満たされているのをみると、その曲がいまから演奏されることの必然性をめぐって深くわだかまってしまうことを告白していた。時代相を読むことを生業(なりわい)としているからなのかと矢野は自らに問うているが、私はこのわだかまりに同意する。時代と向きあわずにクラシック音楽を「美」と「快」のみで捉えていると、やがては芸術としての活力すら失われてしまうのではないか。今回の九響の選曲にはそうした問題意識が感じられた。
欲を言えば再来年度以降の九響の定期演奏会においては、世界初演作品を上演曲目に加えてほしい。つまり九響自らがクラシック音楽のレパートリーを創造してほしいのだ。そうしてこそ地域の人々に誇りとされるオーケストラになるのではないだろうか。
なお、今季、多くの時間を福岡から離れて過ごさざるを得なかったため、私自身は九州でのいくつかの興味深い演奏会を訪れることができなかった。特に韓国現代作品チン・ウンスク《ロカナ〜光の部屋〜》の上演を含んだ九響337回定期公演(11月27日)を聴きそびれた。たのしみにしていただけに残念。フェイスブック上ではこの作品をめぐっての九響の演奏者たちの書き込みが盛り上がっていた。時代と向き合うことの重要性を演奏者たちも感じていることをあらためて確認した。
ところで、名曲であっても20世紀に作曲された作品はそれ以前の名曲とは共感の度合いがあきらかに違う。そう思わせたのがワレリー・ゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場管弦楽団による演奏会である(10月10日、アクロス福岡コンサートホール)。ストラヴィンスキーのバレエ音楽《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》が一挙に演奏された。いずれも今から100年ほど前にディアギレフ率いるバレエ・リュスのために作曲されたものだ。100年前が古いか否かは対象によって一様ではない。不協和音を大胆に用い、変拍子に基づく複雑なリズムを示し、古典的作曲思考からは隔絶し、そして打楽器重視の色彩感豊かな管弦楽法によるこれら作品はまさに現代的で新しく、共感の度合いが増した。
ゲルギエフの演奏はきわめて速いテンポや極端な強弱幅の設定によってそうした新しさを前面に出し、ヨーロッパ世界とは異質なロシア的特徴を強調していたように思う。この異質さをウクライナ問題などの欧米社会との軋轢(あつれき)に揺れるロシアの時代相として読み解こうとしたのは、私の過剰反応か。
ストラヴィンスキーのバレエ音楽の新しさはそれが舞台作品であることに関係している。物語、舞踊や演技などの身体の動き、舞台美術・衣装などの視覚的要素などの刺激によって、音楽の枠を超えて聴かれることを前提として作曲されているからだ。
舞台作品の中の音楽ゆえに先鋭的な音響を用いずとも新しさを感じさせたのが、カンパニー・フィリップ・ジャンティの《忘れな草》の舞台である(11月16日、北九州芸術劇場大ホール)。ジャンルを超えたこのパフォーミングアーツにおけるルネ・オーブリーの音楽、特に舞台上の人物によってところどころで歌われる意味をなさない言葉を伴ったメロディーは、自分の世界の中を自由にトリップできるように鑑賞者を誘(いざな)い、そのことで舞台上の装置や人物の動きを追うことに集中させる。音楽劇とは銘打ってはいないが、バレエやダンス、オペラの壁を越えた新たな可能性を感じさせる音楽劇そのものだった。