5月16日、イムズホール、プロジェクト大山『ご開帳』
イムズホールで福岡演劇フェスティバルのひとつプロジェクト大山『ご開帳』を鑑賞。福岡演劇フェスティバル参加作品となっていたので、そのつもりで出かけたら違っていて、完全にダンスシアター(もちろん広義の演劇ではありますが)。でも、これがとてつもなくおもしろかった。
最初はタイトル通りの性的な隠喩に興味が集中したが、途中からはそんなことはどうでもよくなった。息を呑んで意味に満ちた体の動きを追い続けた。音・音楽も体の動きやそれらの統合としての時間的な全体構成をうまくあぶり出すように機能していた。なによりも鍛えられ統制の取れたダンス自体が素敵だ。アラサーの女性ばかりの舞台によるすばらしいダンスグループの存在が確認できたのは明日への希望だ。
5月20日、九響の332回定期演奏会(アクロス福岡シンフォニーホール)「小泉和裕ベルリンの思い出」
九響の332回定期演奏会(アクロス福岡シンフォニーホール)「小泉和裕ベルリンの思い出」を聴いた。曲目は山田耕筰《序曲ニ長調》、ヘンデル《トランペットと弦楽のための組曲ニ長調》、オスカー・ベーメ《トランペット協奏曲》、リヒャルト・シュトラウス《英雄の生涯》。トランペット独奏はベルリンフィルの首席奏者ガボール・タルケヴィ。
《序曲ニ長調》は、1912年に作曲された時の日本のクラシックの受容状況を考えると、山田耕筰の天才ぶりを如実に示している。小泉は暗譜による指揮で、曲への愛情を感じさせた好演。
ヘンデルの組曲におけるタルケヴィのトランペットは名演。音色は明るく美しい。
ベーメの協奏曲は消化不良の感が否めない。大きな破綻はないものの、舞台上のタルケヴィの動きになにか落ち着きがなく、小泉との息がもうひとつの気がした。なお、第1楽章のカデンツァは省略された。楽譜には明確には記されていないものの、多くの場合、再現部から結尾への移行のところにカデンツァが挿入され演奏される。アンコールを2曲もするくらいなら、ここでカデンツァを入れてほしかった。
最後の《英雄の生涯》、小泉は再び、暗譜で振った。気合い十分。第一部はちょっとモタモタした感じだったが(これは音楽構造のせいでもある)、徐々に熱くなってきて、まさに熱演。聴き応え十分。九響も入魂の演奏。扇谷のヴァイオリン独奏もじつに抑制が効いていて美しい。終了間際、トランペットの超低音域の音が聴衆に違和感をもたらし(こんな音を書く作曲者が悪い)、直後の熱狂的な拍手がわき起こらなかったのが勿体ない。
なお、「小泉和裕ベルリンの思い出」というこの定演のタイトルについて、知人からプログラムノートに解説すべきと言われた(今日のプログラムノートを私が執筆していたので)。これについては私の方から九響に触れた方がよいのではとお伺いをたてたが、その必要はないということだったので解説しなかった。やはり解説すべきでしたね。「解題」というくらいですから。
5月23日、イムズホール、Foolish
福岡演劇フェスティバルのひとつNon-verbal Performance「Foolish」をイムズホールで見る。韓国のGongter_DAと日本の14+による日韓共同制作。自殺願望の3人の若者が互いに自殺方法をめぐって生じる関わり合いが劇の進行の中心。
見ていていろいろな不満が。
Non-verbal Performanceといいながら途中から言葉が飛び交う。抑揚のみの不明の言葉が。これが中途半端。そうした音表現の可能性はもっとあるはず。
3人のやりとりの進行が容易に読めてしまう。最後の足掻きの果てになにがくるかもきわめて常識的発想。チェコのアニメ作家ヤン・シュヴァンクマイエルの「対話の可能性」「男のゲーム」などの同様の設定の作品などはEndマークが出るまで何が起こるかの期待の連続、それにもかかわらず納得の結末に導かれる。
あえて言わせていただければ、演技がうまいとは思えない。韓国の俳優はともかく、日本人俳優の演技は中途半端で、行為の重みがまったくない。ばたばた動いていればよいものではない。パントマイム的演技が要求されているのにそれに対応できていない。
観客との絡みは不要。見ていてはずかしい。安易な観客への迎合だし、これで笑いを取るのは発想のレベルが低い。韓国の伝統芸能では観客と絡みながら進めて行くようなものもあるが、それとは違う。
その他、いろいろ………。日本と韓国が互いに遠慮しあって中途半端になっているのかも。