『西日本新聞』2014年4月11日(金)朝刊/文化欄
3月22日(土)、アクロス福岡シンフォニーホールにおいて佐村河内守《交響曲第1番“HIROSHIMA”》が九州交響楽団によって上演されるはずであった。ところが例のゴーストライター騒動で“HIROSHIMA”の上演は全国的に中止になった。CDの販売も打ち切られた。
もし仮にゴーストライター騒動が起こらずに“HIROSHIMA”が上演されていたら、テレビ等で紹介されたのと同じように、聴衆に感動をもたらしたであろう。主催者もそう予測していたからこそ全国各地での上演を企画したのである。
感動をもたらしたはずのものがゴーストライター騒動ごときでなぜ上演中止に追い込まれたのか。高い評価を受けていたはずの音楽が、いわば作曲者名の誤記に過ぎないような事実によってなぜその評価を失ったのか。
その答えは、感動は音楽のみがもたらすものではないからであり、評価は音楽のみで下されるものではないからである。
“HIROSHIMA”の場合、感動は物語がもたらしたものであった。全聾の被爆二世が病と闘いながら作曲したという物語である。その物語は音楽評論家が下す評価にも影響を与えた。そしてその評価が感動をより確かなものにした。だからこそ物語が嘘であることが判明するとその感動は一挙に色褪せた。評論家たちは嘘に踊らされた者として評判を落とした。
そもそも白紙の状態で音楽と向き合うのは不可能なのである。我々は音楽に関する体験や言説を無意識のうちに総動員して音楽と対峙する。音楽の理解はそれらに大きく左右される。理解を深めようとすると新たな言説を必要とする。そのために能動的な聴き手は音楽理論を学び、作曲家の評伝を読む。意欲的なコンサート制作者は聴衆を惹き付けるための言説で音楽を彩る。
今回の“HIROSHIMA”をめぐるゴーストライター騒動は、音楽の理解が物語までを含む言説によって大きく左右されることをあらためて我々に知らしめた。嘘は絶対にあってはならないが、なじみの薄い現代作曲家の作品に多くの関心を集めることに成功した“HIROSHIMA”の方法に学ぶものは何もないのであろうか。
さて、音楽の理解における体験と言説の重要性を身近に感じさせたのが九響の「親と子のためのコンサート」(3月21日、アクロス福岡シンフォニーホール)である。会場には「楽器ふれあいコーナー」が設置され、演奏会前の1時間、未就学児を含む大勢の子供達が楽団員の指導のもとで楽器に親しんだ。コンサートでは指揮を担当した青島広志が軽妙な語り口でわかりやすく楽曲解説を行い、子供達を退屈させることなく音楽聴取に集中させた。そのことを裏付けたのが上演中の客席の静けさであった。このコンサートはクラシックの愛好者を育てるためのひじょうに有効な教育プログラムと言える。継続を切に望む。
聴衆を惹き付けるための言説が不足したために空席が目についたのが「オーケストラの日2014九響特別演奏会」(3月4日、アクロス福岡シンフォニーホール)である。なぜオーケストラの日なのか、なぜこの日にレスピーギの「ローマ三部作《噴水》《祭り》《松》」なのか、これらに関する言説が積極的になされたようには思えない。秋山和慶指揮の九響は感動的な熱演であっただけにもっと多くの聴衆とともにその感動を共有したかった。
山下菜美子を独奏者に迎えた鈴木優人指揮の「天神でクラシックVol.12/続…モーツァルトをあなたに!Vol.7」(1月27日、FFGホール)では《ファゴット協奏曲K.191》が期待を裏切らぬ好演であった。なによりも音色が魅力的。編成にバロック期のトランペットとティンパニを用いた《ハフナー交響曲K.385》の演奏もモーツァルトの新たな魅力を開示してくれるものであった。ただし編成についての言説がパンフレットなどに明記されていなかったのは残念。明記されていればその魅力をより多くの聴衆が共有できたように思う。