「現代のベートーヴェン」ともて囃された佐村河内守氏がゴーストライターを使って作曲をさせていた一件について、感じてきたことを、個人的観点から述べる。

不公平感・違和感
その名前をどこかで聞いた記憶があったものの、はっきりと佐村河内氏の存在を認識したのが昨年3月の「NHKスペシャル」(以下、Nスペ)においてであった。番組での取り上げ方を見て「こんな不公平なことがあるか」というのが第一印象であった。世の中には血反吐をはくような努力をしてよい音楽作品をつくっているのになかなか理解してもらえない現代作曲家がいっぱいいる。なのに「こんなことで注目を集めて、名声を築いていくのはおかしい」という思いをぬぐえなかった。被爆者であり聴覚障害者であるというハンデキャップを水戸黄門の印籠の様に使っていることへの違和感もあった。

評価の難しさ
一般的に言ってクラシック系の現代音楽を評価することは実に難しい。この種の音楽を長く熱心に聴き続けてきた人か、あるいは楽譜を読む力があって音楽の構造的理解ができる人か、そのいずれかでなければきちんとした評価を下すことは不可能である。特に評価を文章化するためには分析作業を伴うので、後者でないと絶対に無理だ。そのような人はごく限られた数しかいない。その限られた人たちは次々と生み出されるクラシック系の現代音楽にいちいち付き合っていられない。話題性のあるものだけを評価の対象にするのは当然であり、多くは個人的な人間関係に基づいて評価の対象を恣意的に選定する。
つまり何が言いたいかというと、評価される以前に評価の対象とされること自体が僥倖にめぐり会うことに等しい、ということの指摘である。その僥倖を佐村河内氏はハンデキャップを利用して手に入れた。
一度評価対象に選ばれさえすれば、クラシック系の現代音楽の場合、プラス評価を受けやすい。なぜならば、クラシック系の現代音楽では作品を完成させるためだけでも確かな技術が必要とされるので、よほどひどい出来映えでない限りは、技術面で褒める箇所はいくらでも見つかるからだ。特に管弦楽作品は高度な作曲技術を必要とするので、完成作品であれば、高く評価しようと思えばそのような箇所をいくつでも見つけることができる。
Nスペの中でも音楽学者の野本由起夫氏が《交響曲第1番「HIROSHIMA」》(以下、HIROSHIMA)を分析して、譜例を示しながら、曲の構成の素晴らしさを得々と説明していた。「それに類することは普通レベルの現代作曲家は皆やっているよ」と心の中でその説明に突っ込みを入れながら私は番組を見ていた。

聴かなかったCD
しかしメディアの影響力は大きく、話題作であれば聴いておかなければとの思いで、私もHIROSHIMAのCDを購入した。
ところが購入したものの、なかなか聴く気になれない。聴覚障害者のハンデキャップを克服した「現代のベートーヴェン」という美談に自分の気持ちが絡め取られるのがいやだったからである。何しろあれだけメディアで佐村河内氏とその創作過程を見せられ、煽られると、それとは無関係にその音楽そのものと向かい合うのはとても困難だ。
Nスペにおいて作曲時に苦悩する佐村河内氏の姿(壁際に座って後頭部を壁にぶつける動作)や、楽想が降りてくるのを待ち受ける姿(机の上に蝋燭をいっぱい立ててそれを見つめている姿)を見ていて、それは嘘だろうと思った。番組内で紹介された音楽の断片もそう思わせるに十分だった。
だが曲を聴いてみて、もしそれが嘘でなかったとしたら、自分の想定外の世界を突きつけられることになるので相当にダメージを受けるだろう。そう思うと、さらに聴くことができなかったのである。

美談が嘘でよかった
そして今回、佐村河内氏が自身で作曲せずに別人に作曲させていたことが発覚した。その時の私の思いは「美談が嘘でよかった」というものだった。その後になってようやくHIROSHIMAのCDを聴くことができた。
その結果、ゴーストライターはかなり作曲技術のある人だということを感じた。一般のクラシック音楽の聴衆がこの曲を名曲として聴こうとしたら、そのように聴くことができるレベルだと思った。
でも、これは特別なことではない。日本で年間に合わせて数十曲発表されているクラシック系の現代音楽の中に、このレベル程度のものはいっぱいある。聴覚障害者のハンデキャップを克服した「現代のベートーヴェン」という美談がなければ、今回のようには派手に取り上げられるような作品では絶対にない。

HIROSHIMAは名曲ではない
なお「名曲として聴こうと思ったらそのように聴くことができるレベル」というのは「名曲」を意味しているわけではない。名曲は、評価にさらされ、年月の淘汰によってはじめて名曲として認められる。そこには強烈なオリジナリティが必要だ。HIROSHIMAは過去のいろいろな名曲の断片のようなものが散りばめられていて、強烈なオリジナリティや革新的なものがほとんど感じられない。それは現代音楽ですらない。
ゴーストライターであった新垣隆氏は、佐村河内守名で発表された作品を自身の著作物とみなすことを放棄すると言った。佐村河内氏名義の作品を、自身の優れた作曲技術を駆使して作曲したが、その作業は創作とは違うものだということを新垣氏はきちんと理解している。そしてそれらが「名曲」となり得ないことも。ただし、新垣氏は罪作りだ。

「作曲」への誤解・偏見
今回の件に関連して、事前も事後もそのマスコミ報道を見て感じるのは「作曲」という仕事に対する誤解であり偏見である。この誤解・偏見が佐村河内氏の嘘を助長した。逆に作曲及び作曲家についての最低限の常識さえ押さえていれば、今回のようなことはおこらなかっただろう。その誤解・偏見の代表例は次のようなものである。
「絶対音感を頼りに彼は作曲した」というNスペにおけるナレーションがニュース番組などではかなり引用されていたが、絶対音感があることと作曲能力があることとはイコールではない。作曲は音楽が作曲者に降りてきてそれを絶対音感を頼りに楽譜に書き留める作業ではない。ベートーヴェンのスケッチ帳を見ても分かるように、五線紙に音符を「書いては消し」を繰り返しながら、つまり推敲することで仕上げていく。そのためには推敲を可能にする技術や経験が必要だ。しかし独学というだけで、佐村河内氏がどのようにこれまで作曲技術を鍛えてきたかがまったく触れられてこなかった。
耳が聴こえないから仕方がないと思いがちだが、佐村河内氏はリハーサルに関心をほとんど寄せていない。Nスペでもリハーサルのシーンはなかったのではないか。これもふつうの作曲家には考えられない。楽譜を書き終えることで作曲作業が終わるわけではない。リハーサルで演奏者に表現上の要望を伝える仕事はきわめて重要な仕事だ。演奏の出来に関心を持たない作曲家などはいないはずなのに。