「アウラ・ファイナル・コンサート《ヨハネ受難曲》」(11月10日、長崎港松が枝国際ターミナル)を聴いた。「アウラ」は1994年に活動を開始した長崎の女声合唱団で、これまで27回の演奏会を行っている。この合唱団の特徴はグレゴリア聖歌を中心にヨーロッパ中世から現代までのキリスト教の宗教曲を一貫して取り上げてきたことである。今回、指揮者として合唱団を牽引してきた小畑郁男作曲の新作《ヨハネ受難曲》の初演によってその活動を閉じることになった。
《ヨハネ受難曲》は聖書の言葉をそのまま用いた小畑自身のカトリック信者としての信仰告白である。編成は3名の独唱とオルガンと女声合唱という小さなものであるが、作品自体は26曲からなる上演時間1時間半以上の大曲。作曲家として、また音響工学的知見に基づく音楽学の優れた研究者として先鋭的な作曲技法を知り尽くした小畑が、そうした技法を敢えて封印して、音楽経験のない者でも練習を重ねていけば歌うことができる範囲の音楽語法を用いて作曲した。その音楽語法はグレゴリア聖歌とそれに端を発する様々なキリスト教聖歌に基づくもの。したがって音楽の外貌はシンプルである。またその旋律は起伏よりも言葉を重視した朗唱風のものが中心となっている。近現代の劇的な音楽表現とは無縁と言ってよい。
カトリックの尼僧姿の人々を散見する中でのこの作品体験は、音楽の「ケア(care)」の機能をまさに実感させてくれるものであった。それは作者自身へのケアであり、演奏者へのケアであり、会場でその音楽体験をともにした聴衆へのケアであり、聴衆の一人としての私自身へのケアでもあった。
我々は音楽行為を経済活動や自己顕示、評価対象としてとらえることに慣れてしまっていて、音楽がコミュニティ創成の機能を持ち、そのコミュニティによってケアの機能が増すことを忘れてしまっている。今回の場合、感動的にケアの機能を思い起こさせてくれたのは、そのコミュニティが地域と時代の中で孤立するものではなく、西洋音楽史全体につながるものであることを示したことにある。
音楽の持つコミュニティ創成の機能は、「伝統」とどのように向かい合うかという局面においても意識される。ぽんプラザホール(福岡市)で催された「筑前艶恋座」旗揚げ公演(11月23・24日)はまさにそうした例である。
筑前艶恋座は文楽座の人形遣いであった勘緑が創設した浄瑠璃人形芝居一座で、勘緑の指導を受けた一般市民による集まりである。その特徴は義太夫(太夫の語りと太棹三味線)の代わりに筑前琵琶の弾き語りで人形芝居を彩っていくことである。今公演の演目は《八百屋お七〜火の見櫓の段》《安達ヶ原》、演出・振付・人形指導は勘緑、作曲・編曲・筑前琵琶は尾方蝶嘉。
伝統芸能を伝統のままで保存することの意義は誰もが認めるところであるが、けっして簡単なことではない。そのままでは拡がりあるコミュニティが形成されにくい面もある。人的資源や場の形成に制約があり、時代の支配的な感性にかならずしも合致しないからである。したがって福岡の地になじみのある筑前琵琶の弾き語りを義太夫の代わりにあえて用いた筑前艶恋座の人形芝居は、福岡発の新たな音楽芸能によるコミュニティ創成を意識した試みである。
尾方蝶嘉の筑前琵琶の歌・語りはそつなく丁寧になされていた。声も美しく、惹きつける。琵琶パートは筑前琵琶本来のイディオムを活かしたもので、それなりに聴き応えがあった。ただし「八百屋お七」にしても「安達ヶ原」にしても異常な状況を描いているのだから、きれいな声のままの歌や語りであっていいはずがなく、「破れ」がほしい。琵琶パートも本来のイディオムから大きく逸脱した箇所がもっとあってよいのではないか。
今回の公演での伝統の見直しは義太夫から筑前琵琶の弾き語りにもっぱら重点が置かれていた。どのようなコミュニティを想定して活動するかに左右されるが、演出や舞台美術や音響効果にも大胆な伝統からの逸脱があってもよいのではないかとの感想を持った。
(なかむら・しげのぶ=作曲家・九州大学大学院教授)