西日本新聞4月9日に掲載された「音楽季報」(1月から3月までの九州・福岡の演奏会が対象)です。

秋山和慶の首席指揮者としての最後の九響定期演奏会(第211回、2月8日、アクロス福岡シンフォニーホール)を聴いた。この記念すべき演奏会の最後の曲目がショスタコーヴィッチ《交響曲第九番》。「九番」ゆえに期待された壮麗かつ長大な曲ではなかったため、1945年の初演時にソ連当局によって批判された曰くつきの作品である。あえてこの曰くつきの作品で九響との10年間の活動を閉じようとする秋山の胸中には、何か特別なメッセージが隠されているのだろうか。
しかし秋山指揮の九響の演奏はそうした私の余計な詮索を吹っ飛ばしてしまった。正しい演奏とは何かを示すために、また九響の魅力を示すために、秋山はこの作品を必要としたのだ。
秋山は真の意味でのマエストロである。彼の演奏には衒(てら)いも媚(こ)びも諂(へつら)いもない。楽譜や規範に則した正確な演奏がそこにある。九響も秋山の要求によく応えていた。特に第四楽章から第五楽章にかけてのファゴット独奏を担当した山下菜美子をはじめ、木管楽器群のレベルの高さを示すことに成功した。
この定期には他に1935年作曲のプロコフィエフ《ヴァイオリン協奏曲第二番ト短調》が岡崎慶輔の独奏で演奏された。この曲は楽想が突然に変化することが多くて、聴き手をちょっとした混乱に陥(おとしい)れることがある。しかし岡崎の演奏は「突然の変化」を豊かな多様性に変えて表現した。岡崎が優れた技巧と同時に知的に音楽をとらえる術(すべ)を兼ね備えている証拠である。
こうして二〇世紀に作曲されたクラシック音楽を聴くと、古典派やロマン派にはない「近親感」を呼び醒まされ、内容が現実感を伴って迫ってくる。二〇世紀以降のクラシック音楽には、近現代文明の中での人間の様々な経験や思想を反映したすばらしい作品がもっとあるはずだ。しかし古典派やロマン派以外の作品を聴くことはオーケストラではきわめて稀である。
歴史の長いオーケストラは膨大なレパートリーを持っている。吹奏楽などはそれがないため、二〇世紀以降の作品に頼らざるを得ない。多くは新作を依頼してレパートリーを増やす。逆にそのことが吹奏楽の魅力になっている。その吹奏楽に似た状況が打楽器アンサンブルにもある。
今年、創立30周年を迎えた打楽器アンサンブル「ポットベリー」の記念演奏会を聴いた(3月16日、ももちパレス大ホール)。元九響ティンパニ奏者の永野哲と九大フィルのメンバーを中心に発足し、これまで数多くの演奏会をこなしてきた。そのレパートリーのほとんどが二〇世紀後半以降の作品。今回の演奏曲目もそうである。いずれも打楽器アンサンブルの魅力を惜しげもなく示した作品であり演奏であった。ほぼ満員の客席も一曲ごとに大きな盛り上がりを見せていた。そこには古典派やロマン派の作品がなくても何の問題も感じさせない。
他にも二〇世紀以降のクラシック音楽のすばらしさを体験した演奏会があった。ひとつは「アルヴォ・ペルトの音楽世界」(3月20日、日時計の丘ホール)であり、もうひとつは鹿児島で催された「伊藤憲孝ピアノリサイタル」(3月24日、e-space hall)である。
1935年エストニア生まれのペルトはティンティナブリ技法と呼ばれる単純な反復の中に静かな美しさを湛えた音楽で高い評価を受けている。一見、古いクラシック音楽のように思えるが、まごうことなき現代の作品であり、現代社会における悲しみや救いが凝縮され表現されている。
伊藤憲孝ピアノリサイタルは全曲目が初演という意欲的なプログラム。今の若い作曲家たちが現代社会をどのように認識しているかをビビットに感じさせた。
「現代音楽」と呼ばれてクラシック音楽コンサートでは敬遠されがちな二〇世紀以降の音楽。しかしクラシック音楽が今日の芸術として社会と関わるためには、身近な時代に作曲された音楽をもう少しレパートリーに加える必要を感じる。