内田光子ピアノリサイタル(11月19日,アクロス福岡シンフォニーホール)を聴いた。1ヶ月前にチケット完売するなど,会場内は満員の盛況。
私がこのリサイタルをどうしても聴きたかったのは,その曲目内容,特に曲目の並べ方による。
プログラムは3部構成と見なすことが出来る。最初にモーツアルト《ピアノソナタイ短調K310》,最後はシューマン《幻想曲ハ長調op.17》である。真ん中の第2部が,ジョルジイ・クルターグ(Gyorgy Kurtag, 1926-)というハンガリー出身の現代作曲家の作品《遊び》から選び出された6つの小品を,バッハ《フーガの技法BWV1080》からコントラプンクトゥス1,《フランス組曲第5番ト長調BWV816》からサラバンド,モーツァルト《ロンドイ短調K511》の間に挿入するという構成である。
まず,最初の《ピアノソナタイ短調》の第1楽章では全体的にはやめのテンポでスタッカート気味にじつに軽やかに,まるでジャズピアノのようで意表をつかれたが,200年以上も前に作られた作品がまさに現代の音楽となって迫ってくる。第2楽章では分散和音による一見単純な主題・旋律がじつに表情豊かに奏され,私には共感覚は備わっていないのだが,この時には色彩の変化を感じたほどである。第3楽章のロンドは4分の2拍子プレストで書かれているため,主題間の相違を目立たせにくいのであるが,内田の演奏はその相違を明確に表現した。つまり個々の主題の性格の違いを浮き彫りにして,まさに「構造的聴取」がしやすい音楽を提示したのである。
圧巻は第2部である。クルターク《遊び》は無調性の現代音楽である。調性や拍節に慣れた耳には無調性・非拍節の現代音楽は音の連関が感じられず,バラバラの音の羅列のように聞こえてしまう。しかし内田は強弱・音長・音域・アタックなどを微細に引き分けることで,音の連関を見事につくり出していて,首尾一貫した音楽的持続を具現する。そして休憩を置かずにバッハやモーツアルトの作品に移行していく。このクルターク《遊び》を絡み合わせることで,バッハやモーツアルトの音楽から調性による耳の惰性を取ってしまう。つまり調性に頼って聞き過ごしてしまいがちな個々の音の属性,すなわち強弱・音長・音域・アタックなどが聴取の対象としてクローズアップされるのである。それらに聴取の対象が向かうように,内田はきわめてゆっくりしたテンポでバッハとモーツァルトを弾いたのである。第1部との見事なコントラストである。
第3部は20分間の休憩を挟んでシューマン《幻想曲ハ長調op.17》である。事前に十分予習をして(楽譜を見て分析し,数種類を音源を聴き比べ)本当にたのしみにしてきた。ところが,第3部開始直前に私はホールのスタッフからある注意を受けたため,聴くことにまったく集中できなくなってしまった。体をかなり動かしながら聴いていたらしい。後ろのお客さんが私の体の動きのために集中して音楽を聴くことが出来ないというクレームがホール側にあったために,「体を動かさないでほしい」とスタッフから注意を受けたのである。私は恥ずかしさでいっぱいになった。同時に周りの人の聴取の妨害をしたという罪悪感にさいなまれた。とても音楽に集中できる気分ではない。
しかしそのうちに,私は別に音を立てたわけではないし(終演後周りの席の人に確かめた),周りの席を侵害してまで身体を動かしていたわけではないと気付き始めた。音楽に集中していると自然に身体が動いてしまっただけである。別に公衆道徳に反したことはしていないはずなのに,どうして注意を受けなくてはならないのかと,今度は怒りが湧いてきた。ますます音楽を聴くことに集中できない。
第3部もきっと素晴らしい演奏だったように思う。残念ながら,私には第3部の演奏を論評することは出来ない。
ホールのスタッフがクレームを優先させて私に注意を与えたのは,そのクレームが正当と判断されたからであろう。そうであれば多勢に無勢で,クラシックコンサートは体を動かさないで聴くものという暗黙の約束を守らなくてはならないのであろう。私は今後体を動かさないように訓練をしてからコンサートに行かねばならない。今後,クラシックのコンサートに行くことは,気分の重いことになりそうだ。