(ARTing 09 2013 (Journal of Art, Design & Culture in Fukuoka) 、『福岡における音楽創作を振り返る』pp.58-66からpp.63-65)

今史朗の身近にいてその影響を受けた前衛作曲家のひとりに三村恵章がいる。音楽的才能に恵まれ、複数の楽器に熟達していた三村は修猷館高校在学中に多くの音楽系サークルからつねに出演依頼を受けていた。東京の芝浦工大に進んでからは大学の勉強よりも作曲の勉強に打ち込んだ。そして23歳の時に作曲した《交響曲》がなんと国際現代音楽協会主催の「世界音楽の日々」(一九七五年、パリ)に入選する。このことで三村は日本の若い世代を代表する作曲家のひとりとして注目を集める。

当時ドイツ留学中であった私は、「世界音楽の日々」出席のためにヨーロッパにやってきた三村と知り合った。そして、彼の作品を知るに及んで、当時の前衛様式を自家薬籠中の物とした高いレベルの作曲技術に驚嘆した。

三村は福岡に時々戻ってきては「日米現代音楽祭」(1974年)や「インターメディア77」(1977年)などの現代音楽コンサートを今史朗と一緒に企画・主催する。福岡に音楽創作のコミュニティが機能していた時だった。

やがて三村は大手の音楽教室の指導講師の職を得て、福岡を拠点にして活動する。しかし、今史朗が亡くなり、小畑郁夫(作曲家)が福岡を去ると、音楽大学が存在しない福岡では作曲家の数がきわめて少なく、三村は孤立感を深めていく。九州作曲家協会という組織に属してはいたが、その組織は三村にとって音楽創作のコミュニティとしては機能しなかったようだ。三村はそこでは作品をほとんど発表していない。修猷館高校の先輩である九州交響楽団打楽器奏者の永野哲が自身の演奏会のために時々三村に作曲を委嘱した。三村もそれに応えて優れた作品を残している。

時代は前衛が輝きを失いつつあった。三村にとっては規範が揺らぎつつある時代でもあった。ミニマル・ミュージックやネオ・ロマンティシズムなど、これまでの前衛音楽とは音感覚を異にする現代音楽が持て囃され始めた。三村もそうした変化に無関心ではおれなかった。少しずつ作風を時代の動向に近づけていく。しかし、福岡に音楽創作のコミュニティがない状況ではなんとも頼りないことであった。三村はしだいに沈黙するようになってくる。

それでも三村は私が2001年に芸工大(現、九州大学大学院芸術工学研究院)着任を機に福岡に移り住んだのをたいへん喜んで、福岡で現代音楽のコミュニティをつくろうと熱く語りかけた。だが、その一年後、彼は急死した。死の翌年の2003年に三村の一周忌追悼コンサートを三村の作品上演を中心に催した。それなりに盛大なコンサートになったが、その後は、永野が三村の作品を取り上げる以外、その作品は演奏されることがない。三村もまた今史朗と同様、忘れられた作曲家になりつつある。

追記:その後2016年1月9日あいれふホールにて催した「九州の作曲、50年」おいて三村恵章《Mythology III》と《Waving MODE II》の2曲を上演曲目として取り上げた。

三村恵章が早くにその才能を認められた事実が確認されるのは秋山邦晴『日本の作曲家たち』下巻(1979年)の作曲家名鑑に掲載されていることである。その中での最年少作曲家であった。