作曲の契機
2020年3月から4月、新型コロナウィルス禍のせいで仕事の予定が大幅に狂い、自作の上演を含むいくつかの演奏会がキャンセルになり、外出もままならぬ状況でちょっと鬱状態。あれやこれやを考えはじめると出口が見えなくなってきた。「コリャ、ヤバイ」と。自分の存在意義を確認し,生きているという実感を得るためには自分にとってのかけがいのない仕事に打ち込むしかない。それには作曲するしかない。
ということで、インスピレーションも準備もなしに作曲開始。4月5日のことだ。とにかく音符を書いてりゃなんとかなるだろうと‥‥。すると,なんとかなってきた。途中からはもう夢中、こんなに集中して作曲したことは久しぶり。21日には完成した。
では、なぜヴィオラのために作曲したか。それはコントラバスの独奏曲まで作曲しているのに、弦楽器ではヴィオラの独奏曲だけはこれまで作曲してこなかったから、ここらでひとつヴィオラの曲を。
それに加えて今年に入ってからの自作(弦楽のための音詩「ポンニャカイ、セダーに化ける」)の練習時(長岡京室内アンサンブル)にヴィオラの音に惹かれる体験をしたから。それがきっかけでネット経由でヴィオラの音楽を集中して聴くようになって、さらにヴィオラの魅力にはまっていった。
それにはもしかしたら年齢的なものもあるかも知れない。若々しいヴァイオリンの音よりも、チェロの自信に満ちた音よりも、コントラバスの隠者のような音よりも、渋くて哀愁に満ちて女にも男にもなり得る音色、そして枯れるにはまだほんのちょっぴり猶予がある年齢層の感情表現を可能にする音色、つまり70歳直前の私自身の心情をあらわすのにピッタリな楽器のように思えたのだ。
曲名の由来
曲名は《Heart and Soul》(ハート・アンド・ソウル)。意味は「全身全霊をかけて」あるいは「魂を打ち込んで」。作曲し始めた際に得た楽想は「悲愴感に満ちたもの」で、最初は曲名を《Pathetic》(悲愴)としようと考えていた。しかし作曲を進めるとPatheticという曲名が連想させるものを超えているように思えてきて、次に《Appationata》(熱情)という曲名が浮かんできた。まるでベートーヴェンみたいでイマイチか。しかし「熱情」という感情の音楽化には違いなく、いろいろ考えた結果《Heart and Soul》に落ち着いた。ジャズのタイトルみたいでカッコいいではないか。
音詩(Tone Poem)は物語にインスパイヤされた感情や想念を音楽で表現したもので、標題音楽のように物語や風景などを音で描写するものではない。私はかつてインド起源の叙事詩「ラーマヤナ」にインスパイヤされた音詩を数多く(20曲以上?)作曲してきた。この《Heart and Soul》は特定の物語に基づく音詩ではない。とは言うものの、発想のもとになった物語はある。
それは2019年の4月から2020年の3月までテレビ朝日系列で月曜から金曜まで毎日お昼に放映されていた倉本聰原作脚本の『やすらぎの刻・道』というドラマ。私はシリーズ放映中、一話も欠かさずに夢中になって見た。老人ホームで生活する引退した著名脚本家の日常と、その脚本家の構想中のドラマ(放映される以前の脚本家の脳内で劇化され、展開されているもの)が交互に現れる。その脳内ドラマの時代は戦前の昭和初期から平成の東日本大震災まで。内容は生活の近代化・現代化によって失われたものへのノスタルジー、端的に言えば失われたことそれ自体の「哀しみ」を表現したもの。哀しみは時に怒りの感情を伴う。ノスタルジーを喚起する失われたものを代表する出来事が「愛する人の理不尽な死」であることが多いからだ。
というわけで、「怒り」「ノスタルジー」「愛」などの感情想念が様々に生み出した楽想を紡ぐことで作曲していったわけだ。
作品の構成
本稿の冒頭に「インスピレーションも準備もなしに作曲開始」と書いてしまったが、50年以上作曲を続けてきたことで、そうした状況下でも作品を完成させてしまう技を持ってしまっている。つまりは身につけた伝統的音楽構成法に無意識に依存してしまうことが出来るのだ。そのことがよいことか否か、その判断は保留する。
曲は連続して演奏される急―緩―急の3つの楽章から成る。演奏時間は7分半ほど。
第一楽章はゆっくりしたテンポの序奏(Moderato sostenuto)で始まる。冒頭、序奏主題は同音反復とその後の素早い半音階上行音型からなる成る(譜例1)。あるいは同音反復とその後の素早い半音階下行行音型から成る(譜例2)。ここでの同音反復はノスタルジーへの導入を、つまり過去に向かう心理的な足取りを表しているつもり。
(譜例をクリックすると別のタグで拡大表示されます)
第一楽章の主部(Allegro agitato)は概ねソナタ形式の外形を示す。
その第一主題は急速で駆け降りる部分とその直後の動機反復によって上昇する部分から成る(譜例3)。急速に駆け降りる部分はこの曲全体の主要動機であり、激しい怒りを表し、後続する楽章にもその動機はたびたび出現する。この初動の衝撃の直後に上昇する楽句を置くことでその怒りが単発ではなく持続するものであることを示したつもりだ。
第二主題は平静なヴィオラの旋律と単純にも思えるピアノの音階上行進行の組み合わせによる(譜例4)。歌謡主題としての性格を持ち、怒りから解放された気分を表すが、その後の展開においては怒りに変質する。そのことでここでは怒りが対照を伴うことで強調される。
第二楽章はいわゆる歌謡楽章(Adagio cantabile, e molto espressiovo)。その直前には同音反復の序奏主題が現れてこの楽章がノスタルジー世界の表出であることを示す。歌謡主題は短三和音の分散型を旋律にしたもので、ひたすら感傷的である(譜例5)。
形式としては歌謡主題による自由な変奏。
音楽の効能の重要要素である「感傷による癒やし」を演歌(=艶歌)の専売特許にしてはもったいない、どうして現代音楽にストレートな感傷の表現があってはならないのか、なんてことを思いながら作曲した。
第三楽章は概ねロンド形式(Presto appassionato)。図式的にはA – B – A’ – C – A” – B’ – コーダ(Aの変奏)、の7部分から成る。そして最後に第一楽章第一主題の冒頭断片が顔を出して曲を締める。
聴いていて一目瞭然(?)。ひたすら感情的にのたうち回り、感情を吐き出し続ける。別に他者を攻撃するつもりはなく、吐き出さないと次へ進めない。こうした楽想はヴィルトゥオーソ(超絶技巧)を要求する。そして超絶技巧自体も音楽の魅力の一つで、これを現代音楽だからと言って隠してしまう手はない。臆面もなく使った。
音高構造
この作品は調性音楽でもないし、十二音技法のように組織だった無調音楽でもない。
「特定のインスピレーションも準備もなしに作曲を開始」すると普段なじんでしまっている音楽の音感覚がどうしてもにじみ出てしまうもの。私が好きで普段よく鑑賞するのが二十世紀前半の近現代音楽に属するもの。それは調性的音感覚を濃厚に残した半音階主義の音楽、あるいは半音階主義でありながら調性的音感覚に支配された音楽、というもの。例えばベルク、バルトーク、プロコフィエフ、シュールホフ等々。加えて今回の作曲は弦楽器のためであったので、調弦システムが影響する調性的音感覚とは無縁にはなれなかった。でもこうしたことが作曲の集中を促してくれ、作曲という行為が喜びそのものであることを教えてくれた。