武満徹作曲オーケストラのための《夢の時》を聴く機会を持った。そこで作曲技法の観点からこの曲について少しばかり勉強した。その経緯・結果を楽曲解説というスタイルで簡単に述べる。
《夢の時》の基本情報
オーケストラのための《夢の時》は1981年にネーデルランド・ダンス・シアターからの委嘱によって作曲された。初演は1982年6月27日札幌にて岩城宏之指揮の札幌交響楽団によってなされた。ダンスを伴う舞台初演は1983年5月5日にオランダのハーグのネーデルランド・ダンス・シアターによってなされた。
武満は作品について次のようなコメントを残している。
「夢」が,その細部において鮮明でありながら,思いがけない非現実的な全体を示すように,この作品では短いエピソードが一見とりとめなく浮遊するように連なる。リズムの微妙な増減,テンポの変化が曲の浮遊感をいっそう強調する。(CD「武満徹:管弦楽曲集」、岩城宏之指揮メルボルン交響楽団、BVCC 634、バリー・コニングハムによる解説から)
タイトル「夢の時」はオーストラリアの先住民アポリジニの神話である。ただし個別の神話を指すのではなく、オーストラリアの先住民アポリジニの「天地創造」に関わる神話全体を意味する。天地創造時代の様子が様々な神話によって語られ、また描画や舞踏、音楽、祭祀などによって表現される。武満は現地でそれらを体験し、その時の感動が作曲の動機になっている。
楽器編成は三管編成に金属製音律打楽器やチェレスタ、ハープを加えたものである。金属製音律打楽器やチェレスタなどによるキラキラした響きを強調するような編成である。
外見的特徴
この曲について武満自身が「短いエピソードが一見とりとめなく浮遊するように連なる」と語っているように、その外見的特徴の第一は、浮遊感を表すために「拍子感・拍節感が曖昧」なことである。この曖昧さは非常にゆったりしたテンポを基本に、拍子が頻繁に変化し、連符が多用されることによってもたらされる。この外観的特徴は「夢の時」という標題内容に合致する。この曖昧さによって聴き手は音楽の流れよりも響きの一瞬一瞬に向けて耳を集中させる。そのことによって武満の管弦楽法による繊細で美しい響きそのものが「味わい」の対象となる。
外見的特徴の第二は「主題旋律の確認が困難」なことである。したがって主題の展開や再現の様子を感じることが困難であり、さらに「形式的把握も困難」になる。そのことによって聴き手は既存の形式に安易に依存することをやめ、能動的に一瞬一瞬の響きをとらえ、創造的に主題旋律や形式を解釈する喜びを味わうのである。なお誤解を防ぐために付け加えれば旋律の確認そのものは困難ではない。主題旋律であるか否か、つまり主題としての性格を持つ旋律か否かの判断が難しいのである。
外見的特徴の第三は「連続する楽句間の差異が大きい」ことである。そのために音楽としての持続性を感じることが難しい。唐突に次の楽句に出会う感じがする。しかしこれによって聴き手は一瞬の響きの魅力に神経を集中するのである。聴き慣れるうちに音楽としての持続性を新たに発見することもある。
意外に伝統的な武満の音楽
外見的特徴について説明するとどうしても伝統的な音楽との差異を強調するようになってしまう。だが少し聴き馴染むと武満の音楽が意外と伝統的であることに気付くだろう。
例えば音の塊として聞こえる楽句にも声部の存在があり、伝統的役割で把握することができる。譜例1(演奏時間の目安としては0:00〜0:26)は曲の冒頭から5小節目まで(p.5)のCelestaからDoublebassesまでの段である。主声部に相当するのが1st Violins及び2nd ViolinsとCelestaであり、コラール和声化されている。中音域の伴奏音型声部に相当するのがViolasである。増4度音程の拡大されたトリルのような音型を示す。低声部に相当するのがViloncellosとDoublebassesである。以上のそれぞれの声部は骨格であり、それらを木管楽器や金管楽器、音律打楽器がなぞることで彩りを加えていく。
譜例はいずれも2017年に第3版としてショット・ミュージック株式会社から発行されたオーケストラ・スコア「武満徹《夢の時》」(SJ1027)からの引用である。該当箇所の演奏時間指示は「武満徹:管弦楽曲集《Hybrid2枚組》」山田和樹指揮日本フィルハーモニ交響楽団(OVCL-00644)に基づく。以下も同様である。
譜例2は9小節目から13小節まで弦楽器のパートである(p.7)。問題になるのは13小節目(演奏時間の目安としては1:03〜1:17)。1st Violinsと2nd Violinsが主旋律を奏する。この主旋律は上行し下行するという「山」型の旋律線を示し、それ自体でまとまりを形成する。この旋律線の背後でViolasとVioloncelloが和音の持続音を鳴らす。そこに譜例からは省略されているが、FluteとOboe、Celestaが主旋律に対する装飾的副旋律を奏する。
なお、武満作品には旋律のコラール和声化が多く現れる。コラール和声化は当然のことながら機能和声によるものではなく、旋律線を曖昧にし、和声を音色の次元でとらえるような感じでなされる。
「音の河」と喩えられることもある武満の音楽であるが、耳を凝らすと楽句は分節可能である。調性音楽のように簡単に分節できるわけではないが、旋律線の上行から下行へというまとまりや、そのまとまりを強調する下行する旋律線などで分節が可能になる。
明確な楽句の反復(再現)が存在することも伝統的要素を示すものであり、武満の音楽にわかりやすさをもたらしている。前出の譜例1においては3小節目の楽句は5小節目(p.6)にそのまま反復(再現)される。
譜例3は23小節目から27小節目(p.10)までの木管楽器から金管楽器までのパートである。24小節のClarinetsで現れる動機が1小節置いてTrumpetsに現れる(演奏時間の目安としては2:28〜2:44)。じつはこの動機はこれ以前に、20小節では木管楽器の、22小節では金管楽器のパートにおいて短3度下に移調されたものが2回続けて現れる(1:58〜2:10)。
形式面において伝統的な三部分形式的配慮がなされている。前半部分の16から19小節(1’25″〜2’00″)は曲の後半部分の97から100小節までのところ(10’40″〜11’15″)においてほぼ同じ内容で再現される。また20から21小節(2’00″〜2’10”)は106から107小節(12’00〜12’20″)において変奏を伴うものの再現と見なすことが出来る。
曲の最終部分(101小節以降、11’00″以降)においてはf(へ音)からh(ロ音)への減5度音程の跳躍の動機が終結を意味するかのように低音域で何度も現れる。これは22小節目(2’15″)においてハープによってかすかではあるが予示されている。
形式的には曲の中間部分は幾分動的になってその前後と対比を示す。その中でも60小節から64小節(6’40″〜7’00″)の部分はほとんど弦楽器のみによる活性化したコラールが現れ、何となく武満の出世作《弦楽のためのレクィエム》の世界を思い起こさせる。
音高構造
この曲の継起的(旋律)及び同時的(和音)音高構造を感得し、その原理を知ることは正直言って難しい。ただ一聴してわかるのは、調性音楽でもなければ、音列音楽のように半音階主義の音楽ではなく、また音響テクスチュアの推移を音楽内容とする音群的音楽でもないということである。旋律のために継起的音高構造も、和音のための同時的音高構造も理論優先ではなく、感性を大切にして決定されているようだ。
緻密に書かれたそのスコアの斜め読みしただけではないかという誹りを覚悟した上で、その音高構造の特徴らしきものを大雑把に指摘しておこう。
垂直的には多くの場合は三和音のいずれかの構成音に半音の付加音を添えて不協和音をつくり、さらにはそのような和音を2種類以上結合させて鳴らすことが多い。不協和音であるが、クラスターのような半音(場合によっては微分音)の集積よる機械的な響きの和音ではない。伝統的な和音に陰翳がついているように感じられ、いずれもきわめて味わい深い。
継起的な音高構造も同様であり、三和音の分散和音音型に半音の付加音が追加されたような旋律パターンが多い。結果として長7度(減8度)や短9度(増8度)などの音程が少なく、無調音楽にはめずらしい完全8度や完全5度・4度の跳躍を含む旋律線が構築されている場合もある。
《夢の時》の聴き方
現代音楽にもかかわらず武満ファンは数多い。その理由の一端は、伝統的な音楽との差異を感じさせる外見の裏に、伝統的な音楽要素を取り入れている点にあると思う。事前にスコアを勉強し、集中を切らさなければ伝統的な形式観に則って構成を理解して武満の音楽をたのしむことも可能である。
しかしそのような聴き方を武満の音楽に対してするのは勿体ない。むしろ先入観なしで、音楽としてのまとまりある持続を感じられなくてもよいから、一瞬一瞬の音との出会いをたのしむつもりで接する方が、武満独自のよさを感得することができるだろうと、私自身の体験から思う。。
かつて作曲の勉強を始めた高校生時代(1960年代後半)、私は武満徹の音楽がまったく理解できなかった。その頃に川端康成原作の松竹映画『古都』(中村登監督)を見た際、その映画につけられていた前衛風の音楽に驚いた。武満徹の作曲によるものであったそれは、音楽と言うよりも、映画音楽の一般常識では音楽以前の「音」としか言えないものであった。そこで私は音楽ではなく「音」として聞き始めた。そうすることでいつの間にかその武満の世界に引き込まれていった。私は画面をあまり見ずに武満の音楽ばかりを聴いていたのだ。
同じようなことが勅使河原宏監督の『他人の顔』(安部公房原作)においてもあった。こちらの方は武満の手による電子音楽であった。最初のうちはとんでもない音を聴かされているという思いにとらわれたのだが、いつの間にかその音楽世界に馴染んでいた。そしてこちらも映画そっちのけで武満の音楽ばかりを聴いていた。
最初から音楽として理解してやろうと思ったいたならばこうした出会いはなかったように思う。
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