報道を通して悲しく痛ましい出来事を知ったことで、被害に遭われた方、特に亡くなられた方を気の毒に思い、いたたまれなくなる。その「いたたまれない」という感情が心のうちで増幅されて出来事を知ったその人をさらに苦しめる。

「いたたまれない」という感情を抱くことは自然なことで、そしてとても大切であり、そうした感情自体は尊重しなければならないし、その感情に寄り添いたいとも思う。

その意味においては暴力性や欺瞞性に満ちた報道のあり方についての検証は必要だ。特に不必要に感情を煽り立てたり、プライバシー暴露のみが印象に残ったりするような報道は厳に慎まなければならない。

しかし「いたたまれない」という感情をもたらしたという理由だけで、報道そのものを規制しろという主張は受け入れ難い。特に報道の社会的役割が毀損されつつある日本の現状を鑑みるに、報道規制はあってはならないとさえ思う。

だがここで何より考えてほしいのは、悲しく痛ましい出来事のうち、報道されているのはじつはその一部に過ぎない、ということである。ふつうに社会で人々と接していれば、そしてそこにほんの少し注意深く自らのセンサーをはたらかせてみれば、「悲しく痛ましく」思うことは社会的話題として報道された出来事以外にも様々にあることに気付くだろう。例えば、不慮の事故でなくなった人、不治の病で苦しんでいる人、組織の理不尽な扱いで自死された人、そしていじめに遭って自ら命を絶った子供など。ちょっと世界に目を凝らせば難民になった人々、貧困や戦争で苦しんでいる人々、それらによって命を絶たれた人々、中でも幼い子供たちなど。おそらく報道されているのはこうしたことの一部に過ぎない。

「いたたまれない」という感情を呼び起こす報道をなくしたところで、「いたたまれない」という感情を呼び起こす出来事は社会から消えてなくならない。結局のところ、「いたたまれない」という感情を呼び起こす報道を忌避する人々は「いたたまれない」という感情を呼び起こす出来事から目をそらしたいだけではないか。

ただしここで断っておくと、「いたたまれない」という感情を抑制するために、悲しく痛ましい事件から時には目をそらしてもよいと私は思っている。そうしなければ生きていけない個人的な事情も存在すると思うからだ。だがその場合も、少なくとも「目をそらしている」という自覚は心の中にとどめておいてほしい。