九響第372回定期公演曲目解説その1(エルガー/第一交響曲)を承けて
3.楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に込めたワーグナーの思い
3.1.ワーグナーの主要オペラ
ワーグナーは生涯に少なくとも13のオペラを作曲したが、今日よく演奏されるワーグナーの主要オペラは以下の通りである。
- 『さまよえるオランダ人』1842作曲
- 『タンホイザー』1843 〜45 作曲
- 『ローエングリン』1846 〜48 作曲
- 『トリスタンとイゾルデ』1857〜1859作曲
- 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』1862〜67 作曲
- 『ニーベルングの指環』(四部作)
- 序夜『ラインの黄金』1853〜54作曲
- 第1夜『ヴァルキューレ』1854〜56作曲
- 第2夜『ジークフリート』1856〜71作曲
- 第3夜『神々の黄昏』1869〜74作曲
- 『パルジファル』1877〜82作曲
3.2.「ニュルンベルクのマイスタージンガー」あらすじ
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はワーグナーのオペラの中ではめずらしく喜歌劇的であり、題材が神話ではなく現実世界に想をとっている。特に実在した人物を描いているのもめずらしい。あらすじを述べる前にニュルンベルクという都市とマイスター制度のついて簡単に語っておこう。
ニュルンベルクは南ドイツのバイエルン州の「自由都市」である。自由都市というのは領主(王、貴族、教会など)から住人の自治を保障された地域で、マイスターという称号を名乗ることを許された職人たちの組合が自治を担った。
ドイツの職人制度は徒弟(Lehring)の階級から開始し、試験を経てGeselle(職人)、そしてMeister(親方)と昇進する。親方には技術だけでなく教養も求められ、その教養には歌のうまさも必要とされる。実際には歌は音楽的なものよりも文学的な作詩の力が重要だったようだ。
物語の舞台は16世紀のニュルンベルク。あらすじは次の通り。この都市へやってきた若い騎士ワルターは町娘エーファと恋仲になり、彼女との結婚を望む。そのためには歌合戦に勝利して親方になる必要がある。ワルターは親方ザックスに教えを請う。じつはザックスは父と娘ほどの年齢差のあるエーファに想いを寄せていたのであるが、その想いを捨ててワルターを応援する。恋敵ベックメッサーの妨害を克服してワルターは歌合戦に勝利し、親方昇進を確実にしてエーファと結婚を確実なものにする。ザックスはワルターに親方の心得を説く。
3.3.ザックスとベックメッサー
ザックスは実在の人物(1494-1576)で、伝説的な民衆歌人である。彼の書いた多くの詩が残っている。芸術的創造力に富んだ国民精神の最後の人物で、名人気取りの市民的な俗物に対立する存在である。ワーグナーは自身をザックスに投影している。
ベックメッサーは名人気取りの市民的な俗物であり、意地の悪い才能の乏しい人物である。ワーグナーはウィーンの音楽評論家ハンスリックになぞらえ、当て擦っている。事実ハンスリックはワーグナーの音楽を否定し、対照的にブラームスの音楽を称揚した。そして両派の対立を煽った。そのため、ウィーンにおいてワーグナー派だったブルックナーはハンスリックに邪魔されて自身の音楽の演奏機会が奪われていると信じ込んでいた。
4.「マイスタージンガー」第1幕への前奏曲の聴きどころ
4.1.形式
第1幕への前奏曲は一般的なソナタ形式ではないが、提示部→展開部→再現部→コーダという図式にあてはめて聴くと音楽内容を把握しやすいであろう。
提示部では7つの主題が順次出現する。展開部(ca.5:00〜)では提示部において出現した7つの主題に8つの目の主題が加わって展開される。つまり8つの主題が変奏され、様々に組み合わされ、順序を変えて出現することが「展開」である。再現部(ca.7:10〜)では複数の主題が対位法的操作によって同時出現する(作曲技法上見事なもの)。コーダ(ca.9:30〜)はまるで本来に再現部のような外見で始まり、ただちに壮大な終止を導く(ca.10:10)。
4.2.8つの動機
第1幕への前奏曲には8つの動機が用いられている。動機名は解説書によって一定ではなく、同じような動機でもまた使用箇所によって動機名が変わっていたりしているので、ここでは「作曲家別名曲解説ライブラリー②ワーグナー」(音楽之友社、1992)での動機名を用いた。
マイスター・ジンガーの動機(譜例w1、演奏例w1)
演奏例w1
愛の情景の動機(譜例w2、演奏例w2)
演奏例w2
行進の動機(譜例w3、演奏例w3)
演奏例w3
芸術の動機(譜例w4、演奏例w4)
演奏例w4
仕事の動機(譜例w5、演奏例w5)
演奏例w5
愛の動機(譜例w6、演奏例w6)
演奏例w6
情熱の動機(譜例w7、演奏例w7)
演奏例w7
陽気の動機(譜例w8、演奏例w8)
この動機はそれ自体で単独出現するのではなく、他の動機の副声部として展開部以降に出現する。
演奏例w8
再現部における動機の重層(演奏例w9)。再現部冒頭には「愛の動機」「行進の動機」、低声部に「マイスタージンガーの動機」が聴こえる。
演奏例w9
5.モーツァルト、奇跡の旋律
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1786年に作曲した《ピアノ協奏曲第23番イ長調》K.488は数あるモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもよく親しまれているもののひとつであろう。わかりやすい形式を持つ曲であり、様々な解説書も出ているし、聴いているだけもその美しさを理解するにも苦労はいらない。なので他の解説書を読めばわかるようなことではなく、ここではモーツァルトの旋律の美しさについて少しばかり解説しよう。
その旋律とは《ピアノ協奏曲第23番イ長調》の第二楽章アダージョの主題旋律である。楽章の冒頭にピアノ独奏によって弱音で演奏される(譜例m21、演奏例m21)。
演奏例m21
8分の6拍子の嬰ヘ短調のしっとりとしたとても美しい旋律である。ところがこの旋律は一般的な旋律構造からみるとちょっと変わっている。最初に登場する動機は旋律構造においてもっとも重要なもので、普通はこの動機や動機形成以前の部分動機を繰り返し用いて楽句をつくり楽節をつくる。まとまりを感じさせるのに必要だからである。例えばモーツアルトのピアノソナタイ長調K331(有名なトルコ行進曲を含むピアノソナタ)の第一楽章冒頭の1拍目の部分動機を想起してほしい。これは旋律線のみをみるとK488の第二楽章の冒頭とまったく同じである(もちろんイ長調と嬰ヘ短調の違いでニュアンスはかなり違い、あくまでも旋律線のみの話である)。K331ではこの部分動機の反復を用いて動機から楽句をつくり、楽節にまとめている(譜例m22、演奏例m22)。
演奏例m22
もし仮にK488の第二楽章第1小節目の動機を用いて型通りの旋律をつくるとなるとどうなるだろうか。試みに私がつくった例である(譜例m23、演奏例m23)。
演奏例m23
1小節目と3小節目に同じ動機が使われているのが分かるであろう。楽句の繰り返しによって楽節としてまとまりをつくっているのだ。
しかるにモーツァルトの旋律ではこうした動機の繰り返しは表面的には存在しない。また拍節的にもいびつで、第2小節目2拍目頭には新しく音が打たれることはないし、第3小節目の1拍目も同様である。つまり拍としてのまとまりがあいまいだが、じつはここにこそこの旋律の奇跡とも言うべき旋律構築の巧みさが潜んでいる。次の分析楽譜(譜例m24)を見てほしい。
第1小節目の後半の分散和音の上行型音型(a)によってこの旋律の最高音に至る。最高音到達を強調するかように連続してこの最高音が打たれる。そこからいきなり7度の跳躍下行(c)する。その後ただちに6度跳躍上行(a’)する。aの分散和音による6度上行の代わりにa’はむき出しの6度の跳躍上行になってはいるが、a’を構成する2音は和声音であり実際には省略されている途中の和声音が想像できるのでaの模倣と考えてよい。6度の跳躍上行は3小節目の前半にも登場する(a”)。この時は一六分音符の繋留音解決の反動エネルギーの結果として跳躍を容易にする。最後の減5度の跳躍上行音型も含めて上行型音型(a)が4回も頻出してこの旋律のまとまりをつくり、その出現の状況が同じでない点において変化をつくり出している。
4小節の楽節は普通はふたつの楽句に分けることができるが、この旋律もそのようになっている。第2小節目後半のc’は順次下行であり、この順次下行は第4小節目にもc”となって出現する。装飾されて一見分かりにくいが、旋律線骨格は2度順次下行であり。2+2の小節構造でまとまりある楽節構造になっている。
以上の分析的な視点をモーツアルト自身が実際に意識して行ったことはないだろうが、彼の美意識がありきたりの旋律構成でないものを求めたひとつの現れである。ありきたりの旋律構成を想定した上で比較してみると彼の美意識の奥深さが理解できるだろう。