(本稿は「音楽表現学会」での2016年の大会での基調講演についての報告のひとつとして、会員向けのニュースレター2016年度第1号に書いたものです。)

旭山動物園長坂東元氏の基調講演「動物の声を聞く」は、動物の声を講演内で実際に聞くことはありませんでしたし、音楽表現学との表面的な接点もなかったのですが、私にとっては感じることがいっぱいある内容でした。

旭山動物園は今や北海道を代表する観光地として定着し、上野動物園や名古屋の東山動物園に次ぐ来園者数を誇ります。過去には「ラッコやコアラ、パンダがいなければ動物園にあらず」というような風潮の中で苦しい時期もあったようです。しかし話題となっている動物を購入して集客をはかるという安易な道を選ぶのではなく、「伝えるのは、命」という基本テーマにそって愚直にやってこられたことが今日の成果につながっています。動物たちへの深い愛情、動物園設置目的への深い理解、動物園職員のやりがい実現への自主努力がその基本テーマを構成しています。それらが動物の自然な行動や生活を見せる「行動展示」として具現化されてきたのです。じつはこうした旭山動物園の実践は「音楽界」にも通じる話なのだと思いました。

我々音楽表現学会の会員個々は音楽表現に関することを追究します。しかしそれは音楽表現をする「場」があるという前提があってこそはじめて可能になるものです。その場は音楽表現の場であると同時に音楽受容の場でもあります。またそれは他者との協働を可能にする場でもあります。会員個々はそうした場を意識することによって、追究すべき課題を得て、追究への刺激を受けるのだと思います。もちろん、そうした場をつくることは音楽表現学会の直接的な目的でないことはよく承知しています。しかし場を意識することによって会員個々の追究すべき課題が明らかになり深まっていくのですから、我々が場をつくることはできなくても場をまもり、場をつくる人を応援することはできます。

なお、ここでいう場とは簡単に言えば「劇場」のことです。ただしハコモノとしての劇場を指すだけでなく、劇場と同様のはたらきをする場をも意味します。またそうしたはたらき自体を場と呼ぶこともあります。

坂東氏の話は、こうした場をつくるのにラッコやコアラ、パンダばかりを重視して運営する動物園と同じことをしてはならないと教えてくれます。音楽界においては、例えばきちんとした運営方針を立てずにハコモノとしての劇場だけを建設する、あるいは持続的な活動計画を立てずに著名な演奏家を招聘して演奏会だけを催すなどは、ラッコやコアラ、パンダを購入し展示するだけで事足れりとする動物園と同じなのです。旭山動物園における「伝えるのは、命」とおなじような基本テーマが音楽界の個々の場においても必要なのだと思います。

そうしたことを考えながらの大会からの帰り道、たまたま出版されたばかりの平田オリザ『下り坂をそろそろ下る』(講談社現代新書、2016)を読みました。平田オリザは日本を代表する劇作家・演出家で、大阪大学や東京藝術大学でコミュニケーションデザインや文化政策を教え、全国各地で演劇ワークショップを展開しています。この本の内容を簡単に言えば、物的人的資源が減少し続けて経済の右肩上がりがもはやあり得ない状況下の日本で、つまり下り坂を下っている日本で、その状況がもたらす「さびしさ」を日本人が克服して幸せや生きがいを感じるには「芸術」を中心に据えることだという主張です。平田は過去においても『新しい広場をつくる(市民芸術概論綱要)』(岩波書店、2013)や『芸術立国論』 (集英社新書、2001年)などにおいても同じ主張をしています。いずれにおいてもその主張にもとづく平田自身の実践例がさまざまに紹介されています。

平田は、芸術を特権的な者だけが創作し鑑賞するものとはとらえずに、人々のコミュニケーションを促進しコミュニティを形成するためのもので、誰にとっても必要なものであり、心の健康のため栄養剤なのだと言っています。芸術をそのようにとらえることによって人々の生活が精神的に豊かになり、地方の街にも活力と魅力が生まれて過疎化が解消し、GDPには現れない持続的な経済活動が保証されるとしています。そうした取り組みの成功例として自身が関わった瀬戸内の小豆島や但馬の豊岡、讃岐の善通寺、東北の女川・双葉などを紹介しています。

平田の場合、演劇を中心とした紹介例ですが、同じパフォーミングアーツであることで音楽にも深く関係する内容です。「伝えるのは、命」という旭山動物園の基本テーマと同様のものを、音楽表現の場においても意識することこそが、音楽表現学そのものの追究を進めていくのではないかと思います。