日本音楽表現学会第14回〈メム〉大会(2016年6月5日/拓殖大学北海道短期大学)
学会企画統一テーマパネルディスカッション『音楽文化の継承と発展の視点から著作権を考える』から、中村滋延の話題提供
<はじめに>
作曲家の中村滋延です。3月末まで九州大学大学院の芸術工学専攻コンテンツ・クリエーティブデザイン・コースで教えておりました。
学会企画統一テーマパネルディスカッション『音楽文化の継承と発展の視点から著作権を考える』において、「この時代の表現者と著作権」というタイトルで、一種の問題提起として、話します。
私は著作権についての素人です。じつは著作権について記した文章を読んでもよく分かりません。というよりも、分かろうとしていないのかも知れません。著作権のことを気にしていたら、創作意欲がしぼんでしまいそうな気がするのです。
その私が著作権について話しますので、かなりいい加減な、手前勝手な内容になると思います。よろしくお付き合いください。
<私の立場>
今日の話をする際の私の立場を説明します。
私は作曲家です。その仕事は紙に楽譜、つまり音符を書くことです。
作曲家であるとともに、私は、自分のことをメディアアーティストとも名乗っています。これは映像アート作品や演奏ソフトウェアアートを創作しているからです。これらは私にとってはともに音楽作品なのですが、楽譜を書くのではなく、デジタルメディアを用いて、編集したり、プログラミングをしたりします。
今日の著作権の話は主にメディアアーティストとしての創作者(クリエイター)の立場から話します。音楽表現学会にメディアアートの話なんか関係ないと思われるかも知れませんが、このデジタル時代、大いに関係があります。
<話のモチーフとしての「映像音響詩」>
話のモチーフは、私の創作活動の中の重要な領域で、メディアアートの一種である「映像音響詩」です。これは、簡単に言えば、映像付きのテープ音楽です。テープ音楽というのは慣習的な言い方です。録音テープやビデオテープに固定した作品で、テープを再生することが上演することになる作品を指します。実質的には電子音楽とミュージック・コンクレートを指しますが、両者の混合が進んで区別がつかなくなり、共通する媒体としてのテープをジャンル名に長く使っていたわけです。
映像音響詩は、ビデオテープに固定していましたから、形態としてはビデオアートです。今日ではテープではなく、デジタルの映像ファイルとして固定されます。素材もすべてデジタルファイルとして存在します。その素材は作者自身が録音撮影したものだけでなく、すでにある素材を使用することもあります。場合によっては他者が録音撮影制作した素材を借用・引用することがあります。
ここのところが、著作権上問題になるところで、今回のディスカッションの主題に大きく関わるところです。
<映像音響詩《Lust》>
最初に映像音響詩《Lust》という作品と著作権の関わりについて話します。
この作品は2000年に制作しました。
1990年代の最後、オウム真理教の事件があり、クリントン大統領のセックススキャンダル事件、ゴアとブッシュの大統領選挙の不正開票疑惑、ユーゴスラヴィアの内戦、スリーマイル島の原発事故、東海村の放射能漏れ、大阪府の横山ノック知事によるセクハラ、などの事件が相次ぎました。
そうした事件は人間の邪な欲望、つまりLustが引き金になっておこっているのではないかとの思いで、それらの事件をモチーフにした作品をつくったのです。そのために現実のニュース映像・音声、ニュースに関わる雑誌の写真画像などを素材としてつかうことになりました。
それらの素材を収集するのは、このデジタル時代にあっては非常に簡単です。そしてそれらを加工・編集するのも非常に簡単です。私はこうしたことをまったく著作権を侵害しているという意識なしで行っていました。
それでは映像音響詩《Lust》の一部をお示しします。
この作品は国際的なコンペやフェスティバルで入選・上演もされましたが、著作権侵害のクレームを受けることはありませんでした。しかし、この作品をDVDとして商品化すれば、問題になるかも知れないという指摘は受けています。
<映像音響詩《Reassembly》>
次に映像音響詩《Reassembly》という作品と著作権の関わりについて話します。この作品は2012年に制作しました。
この作品は小津安二郎監督の『東京物語』へのオマージュです。小津の『東京物語』は、イギリスの王立映画研究所が10年ごとに行っている「世界でもっともすぐれた映画」を選出する直近のアンケート調査(2012年)において、世界の「映画監督が選ぶ部門」の第1位になりました。ちなみ世界の「映画評論家が選ぶ部門」第3位でもありました。
じっさい、大変すぐれた映画です。画像構成、音・音楽の用法、時間軸上の構成、どれをとっても奇跡といってよいほどの出来です。私はこの卓説性を映像音響詩として表現しようとしたのです。いわば評論として映像アートをつくろうと思ったのです。通常評論家は文章で作品の卓越性を表現しますが、私はアーティストとして音と映像でそれをおこなったのです。
2時間強の上映時間の映画を、時間軸の比例配分を維持したまま6分に圧縮し、画像構成や音楽の用法の特徴を抽出して表現し、音楽作品としての首尾一貫性もあるように構成したのです。(※先端芸術音楽創作学会の第25回研究会においてこの作品について語っています。)
それでは映像音響詩《Reassembly》の一部をお示しします。
この作品の著作権上の問題については、著作権が切れていることや、同一性保持権の侵害に当たらないことなどを理由に、専門家からは問題なしと言われました。
<映像音響詩《愛の変容》>
そして映像音響詩《愛の変容》という作品と著作権の関わりについて話します。この作品は2000年に制作しました。
この作品はピカソの絵画作品へのオマージュです。特にマリテレーズをモデルにした作品群へのオマージュです。50歳近いピカソは17歳の少女マリーテレーズと知り合い、彼女をモデルに多くの作品を描きました。その一連のシリーズによってピカソは新たな境地を開いたと言われています。
私のこの映像音響詩も評論としての映像音響詩です。そこではピカソの絵画作品の卓越性を示すために、絵画作品自体を分析しています。そのためにピカソの絵に様々に加工を施しています。
音・音楽の方は時代の雰囲気やピカソやマリテレーズの感情を表現しています。そのために音・音楽においても引用を多用しています。
それでは映像音響詩《愛の変容》の一部をお示しします。
この作品は、上映する度に大変評判がよいのですし、私自身も大変気に入っています。しかし、上映の度に著作権侵害にあたるとの指摘を受けます。ピカソの作品の著作権は生きていますし、同一性保持権の侵害にもあたります。したがって、本日この機会は別として、私的空間でのみ上演するようにしています。
<ワラッテイイトモ事件>
最後に私がはじめて「著作権侵害」を意識した事件について紹介します。
キリンアートアワードというアート・コンペティションがありました。その2003年度に「ワラッテイイトモ」という映像作品が最高賞を取り、大変な話題を呼びました。その作者は作品について以下のようなコメントを出しています。一部の引用します。「これは日記です。この映像は私が八王子で、一人引きこもっていた頃の記録です。毎日 繰り返される平坦なテレビ映像を自分と現実をつなぐ唯一の媒介物として、それを無意味に再生産してみる。あの頃はバカみたいに一日中テレビばかり見てい た。当然、テレビの中の人物が考えるように考え、行動し、同じ物を信仰するようになる。映像の文体もテレビ番組と同じだ。(以下、略)」(K.K. 氏談)
もちろん審査員やコンペ主催者はこの作品が著作権・肖像権侵害の恐れがあることを知っていました。ですから受賞作品の公開には著作権・肖像権侵害にひっかからない公開版を作者の了解の元につくったそうです。現在はyoutubeで視聴可能です。ただし意図的だと思いますが画像の質を落としています。その一部の示します。
私はこのコンペの主催者や審査員たちが、著作権法上の文言に無批判に従うのではなく、アート作品としての創造性を評価するようにしたことを肯定します。
他者の権利や名誉を侵害するのは間違いですが、それを杓子定規に振りまわして、人類全体の創造が衰退していっては元も子もないと思っています。
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