西日本新聞10月9日朝刊掲載

九州交響楽団(九響)は、「定期演奏会」「天神でクラシック」の2つのシリーズに加え、2015年度から新シリーズ「名曲・午後のオーケストラ」をはじめることを発表した。新シリーズは年4回の演奏会をアクロス福岡シンフォニーホールで開催する。その特徴は、①開演が土・日・祝日の午後2時であること、②誰しも一度は耳にしたことのあるよく知られた名曲を中心としたプログラムであること、③辻井伸行などの若手人気奏者を協奏曲の独奏者に迎えること。
これらの特徴には九響の自主公演に足を運びやすくしてクラシック・ファンのすそ野を広げようとする意図が見える。全収入の4割以上を公的助成金に頼っている九響としては、「公共性」を問われたときにファンの数はその責任を果たした証拠のひとつになるのだろう。
ところがこの新シリーズに縁のなさそうな人たちもいる。俗にいうコアなファンである。作品や演奏を深く味わうことができ、かつその内容を知識と経験とに基づいてコメントできる聴衆である。これを「能動的聴衆」と呼ぼう。かつて三島由紀夫は『文章読本』においてチボーデの説を紹介して小説の読者を「普通読者」と「精読者」の二種類に分け、後者の重要性を強調した。クラシック音楽においてこの精読者に相当するのが能動的聴衆である。能動的聴衆の音楽への愛は一過性ではあり得ない。彼/彼女には周囲に影響を及ぼして同好者を呼び集める核となる可能性がある。
よく知られた名曲ばかりの新シリーズや、気楽に音楽をたのしむための語り入りの「天神でクラシック」は、能動的聴衆にとって是が非でも行ってみたいと思わせるものではない。特に新シリーズの場合、その年会費の1回分が定期演奏会のそれよりも高額ではなおさらだ。
こうなれば芸術性重視の定期演奏会に期待するしかない。
その点でいくと大友直人が指揮した九響の334回定期演奏会「華麗なるイギリス・プログラム」(7月18日、アクロス福岡シンフォニーホール)は能動的聴衆が期待することができた内容だった。大友はエルガーの《弦楽セレナード》と《交響曲第2番》、ヴォーン・ウィリアムズの《テューバ協奏曲》においてイギリス近代音楽の大陸のそれとは異なる魅力を示した。テューバ独奏を担当した九響の鈴木浩二は熱演・好演。アンコールでは超絶技巧も披露した。テューバの魅力と、鈴木浩二という存在とを知らしめた好企画でもあった。
小泉和裕が指揮した335回定期演奏会「小泉音楽監督ブルックナーを再び」(7月18日、アクロス福岡シンフォニーホール)での《交響曲第一番ハ短調》は楽器間の音量バランスを欠いており、作品の魅力が十全に活かされたとは言い難かった。プログラムそのものは能動的聴衆を期待させた内容ではあった。
能動的聴衆しか興味を持たないと思われる4本のチェロという編成にもかかわらず、会場の多くに音楽を聴く喜びをもたらしたのが「クァルテット・エクスプローチェ」の旗揚げ公演(8月1日、あいれふホール)。メンバーは福岡出身の市寛也をはじめとするN響、都響、読響などに所属しソロ活動も行う30歳代前半の若手男性チェリストたち。意欲と創造性を感じさせる企画であり演奏であった。特にチャイコフスキー《ロココの主題による変奏曲》、ポッパー《ハンガリアン・ラプソディ》、ピアソラ《天使のミロンガ》《アディオスニーノ》《リベルタンゴ》の演奏が秀逸。次回公演にも必ず足を運びたいと強烈に思わせた。
バッハのみによる「管谷怜子ピアノリサイタル(J.S.バッハ クラヴィーア作品全曲演奏会第5回)」(9月28日、FFGホール)も能動的聴衆しか関心を示すことのないプログラムだったかも知れない。しかし《パルティータ第1番変ロ長調》、《フランス風序曲ロ短調》や弦楽五重奏の伴奏による《ピアノ協奏曲第1番ニ短調》などの管谷のバッハにかける一途な思いが結晶化した演奏とその必死な姿に、能動的聴衆のみならず会場の多くが感銘を受けた。揺らぎなどとは対極にある好ましい精確さに満ちた演奏でバッハの魅力を再認識させた。