やった側は忘れるが、やられた側は忘れない。これは国際関係ばかりではなく人間関係にも言える。
やられた側がもっとも簡単に恨みをはらすにはやった側への直接の報復。しかしやった側がやったことを忘れるので(あるいは相手にどれほどの傷を与えたかに気付かないので)、その報復には報復で応じることになり、報復の連鎖が生じる。決着は「力」による。しかし現代社会ではこれをやると泥沼化、犯罪化する。
直接の報復以外に恨みをはらす方法は、やられたことを第三者に理解してもらって、その第三者を含む周りからやった側を責めてもらうこと。これは、ある意味、第三者を味方につけて調停に持ち込む方法の一種でもある。
ところがやられたことを第三者に分かってもらうように説明するのは意外と面倒。また第三者にそれを説明することは自分の弱みを見せることにもなりかねず、けっこう心理的ハードルが高い。また正確に分かってくれるか否かは保証の限りではない。また第三者が「やった、やられた」という関係を悪用することだってあり得る。
結果、堪えて黙る。その間は、「絶対許せん」との思いが沸々。それがエネルギーになり、それがやられた側を成長させることもある。だからやられたことを忘れてはならない。執念深くやられたことを思い続ける。成長の結果、恨みをはらすことを超越する場合もある。個人的にはこれを目指すしかない。しかし国際関係の場合、「堪えて黙る」のに国民の理解を得ることは困難だね。………
てなことを、大大大嫌いな奴(顔を見るのも名前を聞くのも嫌な奴)のことを思い出したのを機に考えたり、朝日新聞謝罪報道とそれによる「朝日バッシング」報道を受けて日中や日韓の問題を中国・韓国の立場で考えたりした。