(西日本新聞2014年7月19日朝刊文化欄12面)
1952年に初演されて以来上演回数800回を超える團伊玖磨作曲のオペラ《夕鶴》(木下順二原作)を鑑賞した(4月8日、アクロス福岡シンフォニーホール)。指揮は現田茂夫,管弦楽は九州交響楽団,主役のつうは佐藤しのぶが演じた。今回の公演は前売りチケットが1ヶ月前には完売するほどの注目を集めていた。
上演開始後しばらくは題材・音楽・管弦楽法の相互関係がしっくり感じられず、筆者はその作品世界に入り込めずにいた。題材は日本の民話「鶴の恩返し」であり,音楽はドイツ後期ロマン派とフランス印象派がミックスされたような感じであり,管弦楽法は低音域が意外に分厚く響く。しかし上演が進むうちに,普遍的な人間の情の表出に焦点をあてた歌舞伎役者市川右近の演出と,その情の表出を浮き彫りにするために舞台空間そのものを大胆に活かした日本画家千住博の美術,それらによって,徐々にその作品世界に引き込まれていった。最後にはその世界に心地よく浸りきった。物語・演劇・舞台美術などが音楽と一体となった総合芸術ゆえの醍醐味である。
ところがこの醍醐味,それを味わう機会は九州在住者にはきわめて限られている。筆者は6月20日に東京の新国立劇場で池辺晋一郎作曲のオペラ《鹿鳴館》(三島由紀夫原作)を飯森範親指揮の東京フィルハーモニーの演奏で鑑賞する機会を得た。演劇台本をオペラの台本にほぼそのまま流用したことから生じた構成上の破綻に最初は戸惑いつつも,最後には作品世界に完全に引き込まれてしまった。そういう力が総合芸術たるオペラにはあるのだ。
両方のオペラはともに日本を素材としていたことが,つまり素材が身近であったことが,醍醐味を増すことに寄与していたように思う。
さて,毎年オペラをプロデュースし成功させていることで注目を集めているのが「チケットを売り切る劇場」として知られる兵庫県立芸術文化センターである。そのオペラの演奏を担当し,センターをフランチャイズにして活動するのが兵庫芸術文化センター管弦楽団(通帳PACオケ)である。このPACオケがセンター芸術監督佐渡裕の指揮で福岡に初登場した(4月23日,アクロス福岡シンフォニーホール)。曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調,チャイコフスキーの交響曲第6番ロ短調《悲愴》,他。
佐渡は上演前のプレトークでコンサートを始めた。そのトークからは音楽の素晴らしさを聴衆と共有したいという佐渡の熱い思いがひしひしと伝わってくる。この思いが聴衆に音楽を身近に感じさせ,演奏への集中聴取を誘導する。このPACオケの定期会員数は約4800人(九響の6倍)と聞く。こうした人気については芸術監督佐渡のマスメディアへの頻繁な露出が理由のように言われるが,それだけではない。良質の演奏に加えて,身近さをアピールする地域密着への佐渡の地道な行動の集積もその理由にあるようだ。
ところでトークを取り入れる演奏会が最近増えてきた。これについては賛否両論あるようだが,音楽を身近に感じさせる手立てとして,そして感動を共有する場として演奏会を位置づけるならば,それを導くトークがあっても悪くはない。
九響はFFGホールでの「天神でクラシック」を今年度からトークを交えたシリーズに模様替えした。その1回目が「下野竜也の名曲プレゼント」(6月13日)であった。実演例示を含む下野の楽曲解説は内容の点でも実に有意義なものであった。対象楽曲のドヴォルザークの《新世界より》の素晴らしさを説明するのに別バージョンによる演奏を提示するなどの工夫があり,音楽学者や評論家などがマネのできない,まさに現場にいる者だけが持ち得る勘が冴えわたったトークだった。
ただ気になるのはこのシリーズにおける選曲が入門コンサートとして通俗的名曲に限定されていることだ。楽曲解説のトークがあることで,むしろ通俗的名曲を避けてほしいさえ思う。なぜならトークによってなじみのない曲を身近なものとして聴くことが出来る方法をレクチャーすることこそが,クラシック・ファンを増やし,延いては九響の定期会員を増やすことにつながると思うからだ。