はじめに
今年の2月17日、FFGホール(元福岡銀行本店ホール)にて「九響ジャンプ!」が九州大学と九州交響楽団との連携事業として催され、「トークセッション&ライブ」と題したシンポジウムとオーケストラコンサートが実施された。シンポジウムのテーマは「時代と向き合うオーケストラ」であり、コンサートのテーマは「オーケストラが愛を語る」である。
シンポジウムの発言者は50音順に、飯森範親(指揮者)、池田和正(読売新聞記者)、塩次喜代明(福岡女子大学教授)、末次誠(九州交響楽団専務理事)、中山欽吾(大分県立芸術文化短期大学理事長兼学長)の諸氏、司会は筆者が担当した。演奏会における指揮は飯森範親氏と船橋洋介氏であった。
主催は九州大学大学院芸術工学研究院ホールマネジメントエンジニア(通称HME)養成講座。平成25年度文化庁「大学を活用した文化芸術推進事業」助成を得て行った事業である。ちなみにホールマネジメントエンジニア養成講座は劇場・音楽堂等において専門職人材間の調整統括の役割を果たす総支配人的人材養成を目指す講座である。
「九響ジャンプ!」は、九州唯一のプロのオーケストラであり、昨年、楽団創立60年を迎えた九州交響楽団(以下、九響)にエールを送る催しである。近年、九響の演奏技術の向上はめざましく、今や福岡及び近隣地域におけるクラシック・ファンにとってはなくてはならない存在である。しかし日本の他の交響楽団と同様、公的助成や企業助成の減少、聴衆数の頭打ちなどによって経営上の問題を様々に抱えている。そうした問題を九響内部に留めるのではなく、その周囲の音楽家や音楽関係者、音楽愛好者の問題としても共有し、ともにその解決策を考えて九響をさらに発展させるのが開催の目的であった。
本稿では「九響ジャンプ!」におけるシンポジウムでの発言の紹介をしながら、オーケストラの危機について、オーケストラの魅力について、オーケストラの創造活動について、オーケストラのあるべき姿について、順に論述する。

オーケストラの危機
18世紀のヨーロッパにおいて誕生したオーケストラは、今や世界的な拡がりみせて存在する。近代的な大都市であれば世界中どこでもオーケストラの演奏に接することができる。日本においてもプロフェッショナル・オーケストラだけで25団体もある。
しかし一方で経営上の深刻な問題を抱えているオーケストラも多い。オーケストラはパトロンの存在を前提に誕生し発展してきたため、経済的な利潤を生む組織構造になっていない。かつてそのパトロンは王侯貴族であり、近代市民社会の成立以降は国家(国)や都市(自治体)であり、資本家(企業)である。特に国や自治体がパトロンになるのはオーケストラが生み出す音楽が芸術文化として“公共財”の扱いを受けているからだ。言い方を変えれば、その活動の公共性をアピールすることでしか国や自治体からの財政支援を受けることができない。
ところがオーケストラの公共性など眼中になく、オーケストラへの助成金打ち切りや大幅削減を大胆に行う首長が現れた。橋下徹大阪市長・前大阪府知事である。彼は助成金をアテにするのは経営努力が足らないからだと言う。また数ある音楽ジャンルの中でオーケストラだけを特別扱いできないとも言う。困ったことは、こうした橋下氏の政策が彼の支持率に影響を与えなかったことである。つまり大阪市民・府民の多くにとってオーケストラのことなど「どうでもよい」のだ。
飯森氏は人口の1パーセントしかファンのいないオーケストラには公共性はないと言う。そうだとすれば、福岡がいつ大阪のようになってしまってもおかしくない。

オーケストラの魅力
大阪のようにならないためにはオーケストラの魅力を多くの人に分かってもらい、その存在が生活には不可欠だと感じてもらうしかない。
筆者は2001年から福岡で生活していて、福岡での生活にひじょうに満足している。その最大の理由は九響の存在である。プロのオーケストラの生演奏から受ける感動が私に生きる力を与えてくれるのだ。同じようなことは塩次氏も口にする。氏は「オーケストラがなかったら生きていけない」とまで言う。中山氏はオーケストラに魅力があることを自明のこととした上で、二期会で多くのオペラを制作した経験や音楽大学での教育活動を踏まえて、オーケストラがなければクラシックそのものが消滅しかねないと忠告する。
問題はクラシックが消滅したら困るという思いをクラシック・ファン以外にどれほど広げられるかである。
その点で興味深かったのは末次氏による九響のアウトリーチ活動の報告である。盲学校や療養施設などで演奏した際の聴き手の喜びにあふれた活き活きとした反応に、クラシックの魅力を実感すると言う。それに関連する発言として、池田氏はオーケストラに普段接することができない人にもその魅力を知ってもらうような社会活動の必要性を説く。
飯森氏は公共性に甘えることを戒める立場から、オーケストラがその魅力を自らアピールすることの重要性を主張する。そしてその魅力のひとつは舞台上での「必死になる姿」だと言う。それはオリンピックの競技選手の必死さに通じるものであり、その必死さが感動を呼ぶと言う。

オーケストラの創造活動
ところで、オーケストラで我々が聴くことのできる音楽のほとんどが18・19世紀のヨーロッパで作曲されたものである。現在の日本ではクラシック系の“現代音楽”がさかんに創作されているものの、それらがオーケストラで演奏されることはめったにない。芸術が創造であるという点からすれば、オーケストラは芸術活動をしていないことになる。それともクラシックという名がついているのだからで、古典の再現でその役目を果たしていると考えてよいのか。もし、新しい価値を生み出さないようなものに公的助成は必要ないというような議論があった時にどのように対処するのか。日本の伝統芸能であればそれを保存するだけでも公的意義は存在するだろうが、クラシックの場合は無理ではないか。
飯森氏はオーケストラにおける創造の重要性を認識しているがゆえに、自分はこれまでに100曲以上の新作初演の指揮をしてきたと証言した。
池田氏はジャーナリストとして多くの音楽家に取材した経験からクラシックに欠けているのは「時代と向き合う精神」であり、創造がないのは芸術とは言えないのではないかと疑問を呈する。塩次氏は演奏にも創造が必要であり、その好例として飯森氏の指揮するヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集CDを挙げた。
中山氏は二期会での現代オペラの制作経験から、現代音楽の魅力とそれをオーケストラのレパートリーに取り入れることの重要性を主張する。それに関連して飯森氏は聴衆が少なくても創造という視点から現代音楽を積極的にレパートリー取り入れるドイツのオペラ劇場やオーケストラの例を紹介した。
末次氏は、いつまでも同じことを繰り返していては先がなく、また芸術における創造性を否定する人はおらず、現代音楽や創造的視点によるクラシックにも取り組んでいきたいと述べた。
筆者はオーケストラにおける現代音楽の必要性をアピールする観点から、この日のライブの演目に2006年作曲の自作《ラーマヤナ—愛と死(交響曲第4番)》を、ベートーヴェンやチャイコフスキーと並べて取り上げた。

オーケストラのあるべき姿、そして九響のあるべき姿
オーケストラがその魅力で人々に生きる力を与え、創造を通して新しい価値を社会にもたらすことは明らかである。その上で、それらのことがより多くの人に実感できるようにするにはどうすればよいのか。
飯森氏は、自身が音楽監督を務めていた山形交響楽団の例を示して、オーケストラの存在を地域の人に知ってもらうことの重要性を説き、そのための活動について報告した。なかでもユニークだったのはコンサートを「婚活」の場として提供した例である。そして自身の地域密着の証として地元プロサッカーチーム「モンテディオ山形」のTシャツを着て街を歩いていることも告白した。
末次氏はオーケストラのあるべき姿を「九響ビジョン」という行動理念にまとめたことを報告した。ビジョンの中心は地域密着である。このビジョンによって実践の有無が顕在化すると言い、そのことの意義を強調した。
中山氏は、九響の地域密着の対象とは、その名前からすれば福岡でなく九州全域なのではないかと指摘し、大分での九響の活動を要望した。
塩次氏は専門の経営学の立場から九響ビジョンの重要性を力説し、それが楽団内部の者にも聴衆にも浸透させるように頑張ってほしいとのエールを送った。またオーケストラの魅力はその場に居合わせることで実感できるものであり、コンサート会場に足を運ぶことの意義を客席に向かって力説した。
池田氏は、オーケストラの必要性をアピールするためにはコンサートの場に人が来るのを待っているだけでは限界があると指摘し、九響の奮起をうながした。

まとめ
オーケストラの魅力を多くの人に理解してもらうには、その存在自体を知ってもらい、直に接してもらうことがまず第一歩。そのためにはコンサートの「場」に足を運んでもらうようにはたらきかける。「場」に足を運んでもらうには、地域密着がなによりも大切で、そのための活動を日頃から行うことが強く求められる。
次に重要なことは、オーケストラ活動の本質が創造にあることを認識すること。そのためには、現代音楽を上演プログラムに取り入れることや、演奏自体が創造であることを示すような新たな取り組みが求められる。
オーケストラは経済的な利潤を度外視した贅沢な組織である。それだけにその魅力は格別なものがある。そして何よりもオーケストラはクラシックの基盤であり、それがあることでクラシック全体が活性化する。同時に他の音楽ジャンルをも活性化させる。
憲法25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれている。筆者はその権利によってオーケストラの公共性を主張し、オーケストラへの公的助成を求める。ただこうした思いがバランスを欠いた独りよがりのものにならないために、多くの人にオーケストラの魅力とその存在意義を伝える努力を続けたい。

中村滋延「九響ジャンプ!—九州交響楽団への応援歌」『西日本文化』No469 (pp.49-51)、西日本文化協会、2014