はじめに
作曲を教えることができる教員として2001年に九州芸術工科大学(現・九州大学大学院芸術工学研究院)に着任し、福岡に居を構えてから十二年が経った。時が経過するにつれて、私自身の創作活動の場も福岡が中心になってきた。そのうちに「中村は福岡に住むようになってから作風が変化した」と知人から指摘されはじめた。私自身もそう思うようになった。当初は地域性など意識しなかったが、どうも地域性は創作活動に関係がありそうだ。
本エッセイは作曲家今史朗(コン・シロウ、1904〜1977)を主題にして、福岡における音楽創作の一端を紹介するものである。そのことによって音楽創作における福岡の地域特性を浮き彫りにする。同時に福岡の音楽文化の現状と課題についても触れることになる。
今史朗は「現代音楽」の作曲家である。したがって本稿で扱う音楽創作は、現代音楽におけるそれに限定する。そこでもう一人、現代音楽の作曲家として三村恵章(ミムラ・ヨシアキ、1951〜2002)も取り上げる。三村も、今と同様に、福岡を活動の場にしていた作曲家である。
なお、本エッセイの論述には二つのキーワードが必要になる。ひとつは「規範」という言葉である。規範とは、例えば「よい音楽とは何か」などについて考える時の根拠となる価値観のことである。
もうひとつは「コミュニティ」という言葉である。コミュニティは規範に影響を与える。このコミュニティは時空を超えて存在すると考えられている。例えば「現時点では認められていなくても将来には必ず認められる」という思い込みや、「日本で認められていなくても、先に欧米で認めてくれるはず」という思い込みは、時空を超えたコミュニティの存在を信じることから生まれる。だから芸術家は現世の不遇にも耐えて作品を創ることが出来る。現代音楽の作曲家などはその典型だ。
しかし、時空を超えたものとは異なる「身近」なコミュニティや、そこから影響を受けた規範も、音楽文化創成にとっては無視できないのではないか。そうした思いも本稿の執筆の動機のひとつになっている。
忘れられた作曲家今史朗
今史朗の名前を私が最初に聞いたのは、福岡に移り住んだ2001年のことである。旧知の作曲家三村恵章や小畑郁男から、福岡にはかつて「今史朗」というすぐれた前衛作曲家がいたと教えられた。なんと60年代初めにすでに電子音楽を手がけていたとのこと。三村や小畑が参加していた福岡における「現代音楽を愉しむ会」のシンボル的存在であったそうだ。そして会の世話役的存在の西川直喜を紹介された。その西川は、今の死後、その作品資料(自筆楽譜や音源)をボランティアとして保管していた。
しかし、今史朗にまったく関心を持てないままに時が過ぎた。なぜならば、その作品を直接耳にしたことがないだけでなく、今について知る術がまったくなかったからである。例えば雑誌『音楽芸術』(音楽之友社刊、休刊中)において今史朗の名前を見たことは一度もなかった。さらに同誌は1959から1973年までのあいだに別冊として『日本の作曲』を何回か出しており、その中の「作曲家別作品表」という欄で多くの作曲家の創作情報を詳しく載せていた。しかし今史朗はそこにも一度も取り上げられなかった。また、今世紀に入ってから出版された日本の現代音楽に関する書物、例えば石田一志『モダニズム変奏曲』(朔北社、2005)や日本戦後音楽史研究会『日本戦後音楽史〈上〉〈下〉』(平凡社、2007)には今史朗に関する記述が一切ない。
ところが2010年の福岡市文化賞の授賞式で、過去の受賞者名簿に、それも第一回目の1976年度の受賞者として、私は今史朗の名前を発見した。また西日本文化賞を受賞していたことも知った。福岡ではそれなりの評価を得ていたわけだ。そのことが契機になって、私は自身が企画した2011年の福岡での電子音楽コンサートの上演曲目の一つとして今の電子音楽作品を取り上げることにした。そのために今の創作資料を西川から送ってもらった。
西川から送られた資料を調べるうちに、作品としての質の高さと、旺盛な創作活動を裏付ける作品数の多さに驚嘆した。それとともに、このすぐれた前衛作曲家が福岡以外ではまったく無名であったことと、その福岡においてさえも没後にまったく顧みられることがなかったことに、地方における音楽創作の現実を突きつけられた感じがして暗澹たる気分になった。それとともに怒りもこみ上げてきた。身近で活動していた作曲家をきちんと評価するコミュニティが福岡に存在しなかったことに対して。そして中央の音楽ジャーナリズムの地方無視に対して。
しかし、愚痴を言ってもはじまらない。気づいた人間がやるしかない。こうして私の今史朗についての研究がはじまった。さいわいなことにこの研究は「作曲家・今史朗の音楽創作史研究–忘れられた作曲家の再評価の試み–」という課題名で日本学術振興会基盤研究Cに採択され、2014年度まで研究補助金を得ることになった。
現代音楽史を生きた作曲家今史朗
今史朗は1904年福井県敦賀に海軍少将を父とする軍人の家庭に生まれた。家にピアノがあるという恵まれた家庭環境の中、幼児の時からピアノに親しんだ。10歳前に神戸に移り住み、長じてからは学校の勉強そっちのけで音楽に熱中した。音楽への思い止みがたく、一九歳の時に上京して山田耕筰の内弟子となる。しかし師の教えに従わず、何度か破門された。
最終的な破門の後、東京を出て、外地(満州、台湾、朝鮮)や日本国内の温泉地や遊園地の劇場の音楽家(作編曲者及び演奏者)として働く。福岡には1937年に移り住み、川丈座や東中州花月劇場の音楽家として働く。以降、1977年に亡くなるまで福岡を拠点に活動する。
作曲家として活動をしはじめた当初はクラシック音楽の調性様式で作曲していた。まさに西洋の古典が規範であったのだ。楽器の性能に精通しており、演奏効果に満ちた曲を書いている。劇場という音楽の現場で日々演奏家と一緒に仕事をしていたからだろう。
戦時中は、時局絡みで新日本音楽興隆を目指して和洋合奏曲を作曲していた。当時の今が関係していた都山流葵会の機関誌には「八紘一宇」などの文字が見られる。そうした会の主張とは関係なく、今自身は日本音階や邦楽器を用いつつもその制約にとらわれることのない表現世界だけを追究していたようだ。ただしこの種の和洋合奏曲をこの時期しか作曲しておらず、内的欲求からの作曲というよりも、機会音楽としての作曲だったのであろう。
終戦直後、今は米軍施設や中州のナイトクラブでジャズを弾いた経験から、ジャズに惹かれ、ジャズの勉強をはじめる。やがてジャズと無調性音楽とを融合させるようになる。そしてこの頃から前衛音楽の作曲家としての活動が本格化する。しかし今がどのように無調性音楽を規範として受け入れるようになったのか、このあたりの経緯がはっきりしない。福岡にそのことを可能にするコミュティがあったとは考えられない。音楽大学すらないのであるから。
このあたりのことを語る上で忘れてならないのは、今史朗が戦後になってから実に多くの放送番組のための作曲をしていたという事実である。その作曲のほとんどはラジオドラマの音楽である。地方の放送局でも多くのラジオドラマが制作されていた時代だった。ラジオドラマではドラマの展開によってさまざまなジャンルの音楽を書き分けなければならない。時には特殊な効果音まで作曲する。この過程でさまざまな音楽的な実験を経験したようだ。1970代初頭までの放送局には前衛的な試みを許容する雰囲気がまだあった。今は演出家や技術者とのコミュティの中で前衛への関心を持続させていったと思われる。
そうした折、今は「原子力時代の音楽」と題された電子音楽についての新聞記事を読んで衝撃を受ける。1955年に書かれた記事だ。そこには、楽譜も演奏者もいらなくなり、調性音楽に代わって無調性音楽の時代が来ると書かかれている。やがて今は電子音楽に深く関わり合うようになる。それにはラジオドラマの作曲を通しての放送局の技術者との共同作業の経験も大きかった。
今のすごいのは、電子音楽作曲のために、なんと還暦の歳(1976年)から九州大学理学部数学科の聴講をはじめたことである。それに加えて音響学の勉強もはじめたことである。そのノートが残されているが、かなり本格的な勉強ぶりをうかがうことができる。
1960年、今史朗は福岡を活動基盤にしていた森脇憲三、富永定、木村満らと作曲家グループ「四人の会」を結成する。そのグループは「四人の会+α」として人数を増やしつつ、一九六八年の解散まで毎年新作発表会を福岡で開く。今はそこで十二音音楽や電子音楽、音群音楽などの前衛音楽を発表する。他のメンバーがどのような作品を発表していたのかはよく分からないが、森脇憲三の作品などから知る限り、前衛とは遠い位置で仕事をしていたようだ。おそらく、今はその会の中ではもっとも尖っていたに違いない。
1960年代は「前衛」がもっとも輝いていた時代である。その象徴は「進歩と調和」をスローガンにした1970年の大阪万国博だ。そこでは前衛作曲家が多くの仕事の場を与えられ、活発に仕事をし、その仕事がことあるごとに音楽ジャーナリズムを賑わした。中央から遠く離れていても、そうした前衛音楽の動向をビビットに受け止めることができた時代である。そして「自身の作品は現世では認められずとも、死後に認められるはずだ」ということを疑いもなく思い込むことができた時代でもあった。今も大阪万国博ではサントリー館から委嘱を受けて電子音楽《生命の水》を作曲している。
今は70歳を超えて死の寸前までつねに前衛の立場で作曲を続けた。今の作曲活動を調べていると、戦前からの日本の音楽創作に関する様式の変遷史が、ほぼそのまま今史朗個人の作曲様式の変遷に重なっていることに気付く。これは中央から遠く離れているが故に、むしろ意識して規範としての前衛を追いかけ続けた結果ではなかったかと思う。
天才前衛作曲家三村恵章
今史朗の身近にいてその影響を受けた前衛作曲家のひとりに三村恵章がいる。音楽的才能に恵まれ、複数の楽器に熟達していた三村は修猷館高校在学中に多くの音楽系サークルからつねに出演依頼を受けていた。東京の芝浦工大に進んでからは大学の勉強よりも作曲の勉強に打ち込んだ。そして二三歳の時に作曲した《交響曲》がなんと国際現代音楽協会主催の「世界音楽の日々」(1975年、パリ)に入選する。このことで三村は日本の若い世代を代表する作曲家のひとりとして注目を集める。
当時ドイツ留学中であった私は、「世界音楽の日々」出席のためにヨーロッパにやってきた三村と知り合った。そして、彼の作品を知るに及んで、当時の前衛様式を自家薬籠中の物とした高いレベルの作曲技術に驚嘆した。
三村は福岡に時々戻ってきては「日米現代音楽祭」(1974年)や「インターメディア77」(1977年)などの現代音楽コンサートを今と一緒に企画・主催する。福岡に音楽創作のコミュニティが機能していた時だった。
やがて三村は大手の音楽教室の指導講師の職を得て、福岡を拠点にして活動する。しかし、今が亡くなり、小畑が福岡を去ると、音楽大学が存在しない福岡では作曲家の数がきわめて少なく、三村は孤立感を深めていく。九州作曲家協会という組織に属してはいたが、その組織は三村にとって音楽創作のコミュニティとしては機能しなかったようだ。三村はそこでは作品をほとんど発表していない。高校の先輩である九州交響楽団打楽器奏者の永野哲が自身の演奏会のために時々三村に作曲を委嘱した。三村もそれに応えて優れた作品を残している。
時代は前衛が輝きを失いつつあった。三村にとっては規範が揺らぎつつある時代でもあった。ミニマル・ミュージックやネオ・ロマンティシズムなど、これまでの前衛音楽とは音感覚を異にする現代音楽が持て囃され始めた。三村もそうした変化に無関心ではおれなかった。少しずつ作風を時代の動向に近づけていく。しかし、福岡に音楽創作のコミュニティがない状況ではなんとも頼りないことであった。三村はしだいに沈黙するようになってくる。
それでも三村は私が福岡に移り住んだのをたいへん喜んで、福岡で現代音楽のコミュニティをつくろうと熱く語りかけた。その一年後、彼は急死した。死の翌年の2003年に三村の一周忌追悼コンサートを三村の作品上演を中心に催した。それなりに盛大なコンサートになったが、その後は、永野が三村の作品を取り上げる以外、その作品は演奏されることがない。三村もまた今史朗と同様、忘れられた作曲家になりつつある。
今史朗は、なぜ忘れられたか
では、今史朗や三村恵章のような優れた作曲家がなぜ簡単に忘れられてしまったのか。
その原因のひとつとして、欧米と異なり、日本では現代音楽の楽譜出版がまともに機能していないということが上げられる。作品を管理しプロモートする人がいないのである。しかし、このことは福岡の地域特性とは無関係である。日本国中どこでも同じだ。
福岡独自の原因として考えられるのが、150万人都市であるのに音楽大学がないという事情である。これは簡単に言えばそこに住む音楽家の数が人口比にして少な過ぎることを意味する。特に作曲家や音楽理論家の数が少ない。つまりは音楽創作のコミュニティの核になる人が少ないのである。
それに関連して言えば、福岡の音楽ジャーナリズムが、人口比にして貧しいことも原因として挙げられる。今史朗についての研究をはじめた時に、今自身や彼の作品についての報道や批評記事が少ないのに私は驚いた。良心的な新聞報道を時々見ることはできたが、「批評」を見ることはなかった。まるで福岡には取り上げるべき価値のある音楽創作がないかのようである。
そしてもう一つの原因が、福岡の「辺境意識」である。これは私のようにキャリアの途中から福岡に住むようになった人間が特に強く感じるものである。福岡の音楽関係のイベントを見ていると、よいものはすべて中央から来るという発想を顕著に感じる。その発想のもとは九州の中心都市としての福岡のプライドである。福岡でなされるものは中央にひけを取らない水準のものでなくてはならぬと、最初から思い込んでいる。そのために地域の人とものをじっくり見きわめ育てるのではなく、手っ取り早く中央からそれらを持ってこようとする。その結果、福岡の人々は自分たちの音楽文化を評価することを放棄しているかのように見える。
そして何よりの原因は中央の音楽ジャーナリズムの地方無視である。前出の『日本戦後音楽史』には今史朗についての記載がないだけでなく、九州における音楽創作についての記述がまったく欠落している。地方には取り上げるべき音楽創作など存在するはずがない、ということが前提となっているかのようだ。しかしこれとても、福岡の人々が自分たちの地域の音楽文化、特に音楽創作をみずから評価してこなかったことが原因ではないか。これでは中央が反応するわけがない。
忘れないために –まとめに代えて
さて、以上の私の発言に対して、「忘れられるのは、それは残すだけの値打ちがないのだ」という声が出るかも知れない。これに対してすでに研究に取りかかっている今史朗に関しては「絶対に残すべき作曲家であり、その作品は福岡発の音楽文化財として活用すべき」と自信を持って私は言うことができる。だからこそ今史朗作品の上演機会の創出にも一生懸命に取り組んでいる。
いずれにせよ、拙速に評価をくだす以前に、評価自体を後の世代に委ねるためにも少しでも話題になった人とものについては残す努力をすべきではないか。つまりアーカイブ化の努力である。いったん消えてしまったものはもとには戻らないのであるから。
地域という身近なコミュニティは良くも悪くも現実そのものである。しかし現実感のないところに、つまり地に足をつけていないところに本物の芸術文化が生まれるはずがない。音楽文化創成のためには身近なコミュニティやそれに影響を受けた規範を大切にしたい。
なによりも音楽文化は地域の問題でもあり、その地域で生きる人々の問題でもある。この福岡で活動した今史朗や三村恵章の音楽を上演し、聴き、語り合うことを福岡の人々がやることこそが、福岡の音楽文化を豊かにしていくはずだと信じている。地域の音楽文化が豊かになれば、それは時空を超えたコミュニティや規範に多様性をもたらし、全体をさらに豊かなものにしていくのである。