クラシック音楽演奏家と身近につきあうと,彼らは本当に大変だと思うことがよくある。
 クラシック音楽演奏家は教育投資にみあう経済的成果がもっとも得られにくい職業であろう。幼少の頃から厳しい個人レッスンを受け続け,大学受験のためには高額のレッスン料を払い,さらに地方在住者の場合,毎週のように東京へレッスンに通うこともある。その後も活動継続のためにはきびしい練習を日々続けなければならない。しかしそれほどまでしても,演奏活動だけで食べていくのは本当にたいへん。まして,それでお金持ちになれる人は世界的に見てもほんの一握り。一般的な知名度もスポーツ選手やタレント,ポップス系の歌手などに比べると,特に日本の場合,異様に低い。
 こうしたことを踏まえてもクラシック音楽の演奏家になりたい,なおもクラシック音楽の演奏家であり続けていたいという「思い」に対しては,クラシック音楽大好き人間としては無条件に敬意を表してしまう。
 それだけに演奏家はその「思い」を演奏そのものではっきりと聴衆に伝えてほしい。それほど苦労してまでもクラシック音楽に真摯に取り組んでいるのだということに心底自信を持っていてほしいのである。
 8月から9月にかけて「あいれふホール」(福岡市)でのいくつかの室内楽コンサートを接した際に,上のようなことを考えてしまった。順番に触れていく。
 8月24日にはベルギー生まれのノエ・乾「ヴァイオリンコンサート」を聴いた。ピアノは日本生まれのスミジャ・朴。ヨーロッパを中心にキャリアを積んできた新進ヴァイオリニストで,鋭角的な現代的解釈に個人的にはやや異論があるもののドビュッシー《ヴァイリンソナタ》と,鋭角的な解釈が的を射ていたストラヴィンスキー《ディベルティメント(組曲“妖精の口づけから”)》にその長所を存分に感じることができた。メリハリのつけ方が巧みなのである。モーツァルトやシューマンの音楽もそれなりにきちんと弾いていたが,過去の名演奏がたくさんある中では,存在感を主張するまでには至っていない。
 コンサートは乾の日本語での解説を挟みながら行われたが,個人的にはクラシック音楽コンサートにおける口頭解説は苦手。すばらしい演奏に向けての日々の精進はこうした解説をする余裕を奪うはず。クラシック音楽の演奏の大変さについては愛好家は皆知っているわけで,その大変さを演出するためにも,口頭解説はない方がよいのです。それと口頭解説では難しいことは言えず,どうしても大衆向けになってしまう。愛好家は皆がすでに知っていることを繰り返し聞かされたくないと思っている。
 なお,ホール内では開始前と休憩中にスピーカから音楽を流していた。クラシック音楽のコンサートでははじめての体験。主菜を待っている客に,まがい物の前菜を出すようなものである。耳を疲れさせて,コンサートでの生演奏に集中させるためにはあきらかにマイナス。極端に言えば,聴きたくない場所や時間に音楽を無理矢理聴かされることに我慢ならないのである。耳が汚されたように感じてしまう。
 9月1日には「イル・フューメ コンサート?」を聴いた。クラリネット(タラス・デムチシン)とチェロ(田元真木),ピアノ(中川淳一)という特異な編成のため,原曲から楽器を変更しての演奏である。全体を通して演奏への真摯な取り組みを感じた。デムチシンのプロコフィエフ《ヴァイオリンソナタ第2番》も熱演。魅せ方(聴かせ方)については日本人演奏家にないものを持っている。ただ,音色や楽器としての機構的に,この曲ははたしてクラリネットに合っているのだろうか。原曲のフルートよりもヴァイオリンの方が有名になってしまったこの曲は,やはりヴァイオリンがぴったりのようだ。
 プログラム全体の中ではグリンカ《悲愴トリオ》の演奏が秀逸。ファゴットをチェロに変えての演奏であったが,むしろこの方が原曲と思わせるほどで,感情表出の幅がきわめて大きい名曲として再確認させるほど感動的であった。グリンカは歌劇の序曲くらいしかなじみがないのだが,この作品はこれから演奏機会がふえるだろう。
 客席は半分しか埋まっていなかった。クラシック音楽演奏家の大変さを一番感じさせたコンサートであった。それにめげることなく活動の継続を望みたい。
 9月9日には「漆原朝子&迫昭嘉デュオリサイタル」を聴いた。ベートーベンの《春》《クロイツェル》とフランク《ヴァイオリンソナタイ長調》のいずれもこれまでの彼らの優れた経歴がもたらした自信を感じさせる安定した演奏ぶり。特にフランクにおいて循環主題の存在を明示させる演奏で,音楽構造を浮き彫りする優れもの。迫のピアノはこの曲がまさに構造的に二重奏であることを主張する熱演であった。
 彼らは東京芸大の教授(迫)および准教授(漆原)である。教育投資にみあう経済的成果という面から言えば成功者である。しかし彼らの演奏ぶりは,経済的成果がなんら目的になっていないことを感じさせるもので,そこに芸大教員という地位に安住することない演奏家としての二人の精進の姿勢を感じた。私はそれを高く評価したい。