舘野泉ピアノリサイタル2009 「舘野泉ピアノリサイタル2009」を聴いた(11月17日あいれふホール)。舘野のために書かれた作品のみによるプログラムである。この日がいずれも初演である。
舘野についてはもはや説明を要しないほどに、現在は左手のピアニストとして有名であり、73歳の今も彼のために作曲された左手のためのピアノ作品を次々と演奏するなど積極的に活躍し続けている。
この日演奏された作品は4曲、いずれも委嘱作品である。通常現代作品ばかりのプログラムによるコンサートでは聴衆は集まらないものであるが、この日のコンサートは満員。舘野の演奏が聴ければ現代作品ばかりでもかまわないという人が多いのであろう。コーディ・ライト《アメリーのための組曲》、ソールデュル・ マグヌッソン《ピアノ・ソナタ》、木島由美子《いのちの詩》、パブロ・エスカンデ《ディベルティメント》という内容である。
プログラムの中心はマグヌッソン《ピアノ・ソナタ》であることが舘野自身の発言によっても明らかにされており、演奏時間の長さから言っても確かにそう言う位置づけである。第2楽章の変奏曲に左手ピアノ自体の美しさを堪能させる部分があったが、正直言って一度聴いただけで全体を理解出来るような親しみやすい作品ではない。舘野自身の言にあったように、これからさらにその演奏に磨きがかけられていくべき作品であろう。
木島由美子の作品は、これが”現代音楽”のコンサートで初演されれば一顧だ にされないような内容。しかしこれを舘野がリサイタルで弾くと、表情がきめ細かになり、旋律線が浮かび上がり、ピアノの音が色彩感に溢れ、魅力的な音楽に変貌する。現代の芸術音楽における問題意識とは縁がないのであるから、木島は自分の世界をさらに臆面もなく出した方がよかったように思う。館野には解釈しやすく処理しやすい曲であったようだ。しかしそのこと自体は悪いことではない。
エスカンデの音楽はタイトル通り、聴いていて楽しい曲で、文字通り親しみやすい。その上で右腕を鍵盤に打ち付けるクラスター奏法を取り入れるなど響きの斬新さもあり、演奏時の視覚効果も同時に意識されていた。
現在の舘野のリサイタルでは、左手のピアノ曲のレパートリーが少ないために、いきおい、新作に頼らざるを得ない。舘野自身も左手のピアノ曲を増やすために 基金を設立したりしている。それはすばらしいことだ。ただ、舘野のために書かれたこうした作品が、中途半端な”現代音楽”風なものばかりになっていることに疑問を持つ。つまり、現代の芸術音楽における問題意識に正面から取り組んだ先鋭的な作品でもなければ、多くの聴衆の嗜好を考慮した調性音楽でもない。前回の福岡での舘野のリサイタルを聴いた時に感じたことだが、作曲家が何か及び腰で音楽を作っているような感じがしてならない。むしろ、堂々と調性を用いて、古典派やロマン派のレパートリー不在をカバーしてほしいとさえ思った。
なお、この日のリサイタルでは、プログラム冊子が不足したとかで、私はそれをもらえなかった。A4の紙1枚にコピーした簡単なものだけを受け取ったのである。正規のプログラム冊子はA5の16ページのものである。同じ入場料4800円をはらって、それをもらった人ともらえなかった人がいたのである。プログラムは演奏会を構成する重要な要素である。特に今回のように新作ばかりであれば、曲目解説と作曲者のプロフィールは必須である。それが与えられなかったのである。それに対する補償は上演前の簡単な場内放送だけである。プログラム冊子を受け取れなかった聴衆と、演奏者舘野に対して、主催者は失礼である。ちなみに主催者は「福岡音楽文化協会」である。