はじめに
8月(2009年)から毎日新聞紙上(九州福岡版)において「クラシックへの招待」と題して福岡・九州の音楽会月評を担当するようになった。1回目の音楽会月評掲載(8/29)の直後,ある人から私の批評に対して感情的な異見(クレーム)が寄せられた。私はそうしたクレームも大切に考え,私の批評自体の質を高めていきたい。感情的に反応して議論を終結させてしまっては,社会に向けて発信した意味がない。

私は音楽文化創造に関わる活動のひとつとして音楽批評をとらえている。そこで,音楽批評を行うにあたっての私の立場を明らかにしておきたい。

音楽文化創造への関わり方の3つの立場
私は作曲家であって,批評家ではない。近代以降の社会における音楽文化創造への関わり方に「音楽をする」「音楽を聴く」「音楽を語る」の3つの立場がある(岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書,p52)。その中では私は「音楽をする」立場の人間である。音楽批評は「音楽を語る」立場で行われる。そこで自問したのは,「音楽をする」立場の人間が「音楽を語る」立場を兼ねてよいのであろうか,ということである。ここで言う「語る」とは個人的にではなく,社会的にという意味である。

音楽文化創造のためにはこの3つの立場それぞれに高い質が求められる。
その中で、社会的に「音楽を語る」は,「音楽をする」と「音楽を聴く」との橋渡し役としての重要な役割を持つ。同時にそれは「音楽をする」と「音楽を聴く」とに直接・間接に様々な影響を与える。

「音楽を語る」は実質的には「書く」ことで行われ、公開(出版)によって時間空間的に広がりある存在感・影響力を持つ。個々の「音楽をする」についての評価は「音楽を語る」を通してなされ、そのことを通してしか「音楽をする」は音楽文化創造に対して有効な力を持ち得ない。

「音楽を語る」活動の一形態として音楽批評
「音楽を語る」は、音楽批評や音楽評論、音楽研究論文、音楽報道などの形態でなされる。

批評と評論はともに「音楽をする」ことの内容の価値を論じることである。その価値判断基準は執筆者や公開媒体によって様々であり、判断は執筆者の主観に委ねられる。主観による判断が説得力を持つために何より重要なのは、基準設定や判断にいたる論理展開がきちんとなされていることであり,加えて、執筆者の主観を形成しているバックボーン自体が他者から評価を受けていることである。

批評と評論の違いは、批評がその対象となる出来事から時間を空けずに報道的な意味合いも兼ねてなされるのに対し、評論は時期的なものに縛られることはない。
様々な音楽研究論文の中には評論的な視点のものある。しかし研究論文と評論のもっとも大きな違いは、研究論文には価値判断の客観性が保証され、価値判断に対する検証の可能性が確保されていることである。研究論文では「思う」「感じる」ことは原則としてその内容に含めてはならない。さらに厳密に言えば,研究論文には新事実の発見が含まれていなければならない。

音楽報道は、出来事を予告するか、出来事を報告することに主眼が置かれ,価値判断が前面に出ることはない。

これまで私は「音楽を語る」を主に音楽研究論文の形態で行ってきた。研究論文とみなすには客観性が万全ではないと判断した場合には,評論として扱ってきた。
なお,80年代から90年代において月刊の音楽雑誌(『音楽芸術』音楽之友社)に音楽批評を何度か執筆したことがあった。他に批評をする人がおらず,私が批評をしなければ,対象となる「音楽をする」の記憶・記録が消滅してしまう恐れのある場合にのみ執筆を引き受けたのである。その時には,価値判断をなるべく行わずに,実質的には音楽報道の立場で執筆した。

なぜ音楽批評をはじめたか
今回のように毎日新聞に音楽会批評を執筆するまで,厳密な意味での批評を私が執筆してこなかったのは次の理由による。私は「音楽をする」立場の人間であって,私の「音楽をする」は「音楽を語る」の対象になる。つまり,私は書かれる立場の人間(=評価される者)である。その立場の人間が,書く立場の人間(=評価する者)にその度ごとに都合よく成り代わることを潔し(いさぎよし)としなかったのである。何よりも,発展途上の作曲家は,自身の作曲の腕を謙虚な気持で磨かなければならないのに,他人様(ひとさま)のことを主観であれこれ「語る」のはおこがましいと思っていた。批評は「音楽を語る」専門の者に任せるべきと思っていたのである。

そう思っていた私が音楽会批評の執筆を引き受けたのは,九州福岡では,「音楽を語る」ことが少ないように思われたからである。ユニークで質の高い「音楽をする」があっても,それを対象とした「音楽を語る」がなければ,その「音楽をする」は記憶・記録として残らず,音楽文化創造に対して有効な力を持ち得ないのである。不遜を承知で言えば,このままでは九州福岡の音楽文化創造があぶない。そう考えて,私は「音楽を語る」役割を引き受けたのである。

なお,私は来年還暦を迎える。まだまだ自分の作曲の腕を謙虚な気持で磨かなくてはならないものの,音楽に関する知識や経験は年齢相応に蓄積されてきたと自負している。書かれる立場の人間(=評価される者)としての恐れもそれなりに克服した年齢にも達しているので,そろそろ書く立場の人間(=評価する者)として振る舞っても差し障りがない。そうした思いもあって,2年ほど前からまったく自発的にインターネットのブログで音楽時評などを書き散らすようになった。つまり「音楽を語る」ことを批評の形態でもやり始めたのである。ただしブログでは私的な「語る」とあまり変わるところがない。「音楽を語る」が時間空間的に広がりある存在感・影響力を持つためには,今回のようの新聞紙上に定期的に音楽批評の機会を与えられたことはまことにありがたい。

批評執筆上の信条
さて,以上は総論としての「音楽批評についての私の立場」である。次に各論として,今回,毎日新聞(九州版)での「クラシックへの招待」執筆開始にあたっての私の信条を述べる。

(1)聴衆の立場からの批評:批評の対象は音楽会なので,聴衆としてその音楽会とどのように向かい合ったか,が批評の出発点である。したがって聴衆の立場を超えて,批評対象に対して不必要に接触しない。

(2)質の高い聴衆になって音楽会に臨む:対象に対してするどく切り込んだ取材をするためには,重要な取材対象である演奏曲目などについて十分な予習をして,音楽的知識を確かなものにしておく。

(3) 表面的な演奏の巧拙については論じない:音は鳴った瞬間に消えていってしまう。聴衆として用意周到に予習をしたとしても,その時の体調や気分によって,音を聴き逃したり,すばらしい演奏のはずなのにまったく感動しないということがあり得る。表面的な演奏の巧拙について批評しても,それが不確かなものである可能性がつねにつきまとう。演奏後は音が消えてしまっているので検証することもできない。

(4)検証可能な事象を中心に書くように努める:上の項目とも関連するが,論じる対象は,必要な場合に事後に検証できる事象を中心とする。聴衆としてのあいまいな印象をもとにして論じない。その意味において,検証可能な事象とは耳よりも目で確認できるものになる。例えば新作を論じる時にはその楽譜などは検証可能な事象である。耳で確認できるものでは,聴衆誰もが認識し得る演奏上の大きな瑕疵などは検証可能な事象である。

(5)論点を絞り,明確にする:批評対象として取り上げる音楽会が含む共通の問題点を月ごとにあぶり出し,それを論点にして,批評を行う。単に表面的な演奏の巧拙を論じるのではなく,その音楽会が,その中での演奏が,その中での作品が,音楽文化創造に対して有効な力をどのように持ち得るかを,論点を絞ることで,明確にする。第1回目の批評(8/29)では,CDやDVDによる音楽体験では得られない喜びが音楽会で音楽を聴くことにはあり,それが何であるか,それを得るにはどうすればよいか,を論点にした。

(6)権威よりも地道な活動に光を:すでに名声が確立しているような演奏家や演奏団体を表面的な演奏の巧拙について論評することを避けたい。そのような演奏家や演奏団体は他でも十分に論じられるからである。評価の反復ではなくて,むしろ「発見」を重視したい。

私の批評へのクレームに対する私の意見
1回目の音楽会月評掲載直後に私の批評に対して寄せられた感情的な異見(クレーム)は電話によるものであった。したがってそれを正確に再現することは難しい。以下は,私が記憶し,理解している範囲内での,私へのクレームに対する意見である。

私の批評に対する厳しい意見は,プッチーニのオペラ《トゥーランドット》のコンサート形式上演に関する記述に対して寄せられた。要するに「制作現場の大変な苦労をまったく理解していない批評」であるというクレームである。そのことに関して言えば,私は批評の中で,オペラをコンサート形式でしか上演できない苦境を,主催者・制作者の立場も理解して,共に嘆いているつもりである。しかしそれがそのように伝わらなかったのは私の筆の至らなさだったのか,その読者の読解力不足なのか。

オペラの日本語訳字幕が欲しいと私が書いたことに対してもクレイムもあった。「日本語訳字幕の代わりにプログラム冊子に日本語訳を載せている,それで十分ではないか」「聴衆によっては,字幕は邪魔で不要だという人も多い」と言う。5月に横浜で聴いた一柳慧のオペラ『愛の白夜』では日本語のオペラであったにもかかわらず日本語字幕があり,それで内容が大変わかりやすく,音楽と舞台に集中できた経験があり,オペラにおける字幕の有効性にあらためて気が付いた。舞台を見ずに,目をプログラム冊子の上に落として日本語訳を追いかけるよりも,舞台を見ながら日本語訳字幕を見たい,というのが私の思いである。その思いに反対の人も当然いるだろう。それだけの話しである。

舞台上で独唱者が水を飲んだことや,独唱者が譜面台を置いて歌ったことによって,送り手と受け手の心の通わせ方が難しかったと私は書いた。水や譜面台に関する記述は検証可能な事実である。心の通わせ方が難しかったと書いたのは私の主観である。しかしこの主観による価値判断を導くために,「CDやDVDによる鑑賞によらず,劇場に足を運んで音楽を鑑賞する意義は何か」と,批評冒頭でわざわざふっているのである。

さらに,「批評を書くに当たってどうして問い合わせなかったのか,どうして取材しなかったのか」というクレームがあった。私は検証可能な事実を中心に書くので,検証可能な事実がすでにあれば問い合わせる必要はないのである。取材に関して言えば,音楽会の場にいることこそが取材なのである。価値判断を仰ぐために問い合わせるような批評家がいたら,それは批評家失格である。もちろん,検証可能な事実がない場合,当然,問い合わせることになる。オペラ《泣いた赤鬼》についての批評では,楽譜がどうしても入手できず,主催者に問い合わせて楽譜を貸してもらったりした。

今後に向けて
正直言って,1回目の音楽会月評掲載直後のクレームはまったく予期していなかった。私自身,クレームがくるようなマイナスの価値判断の批評を書いた覚えが全然なかったからである。クレームが来てから読み返してみると,誤解を与えたかも知れないと思うところもあったが,しかしこれすらも読解力による。そのクレーマーは最初に感情的になっているので,すべてがそのように読めてしまうのである。

結果として,批評を書くことで,私自身の意に反して,敵をつくることになってしまったようだ。そうなってしまったら,そうなったで仕方がない。怒らせないこと,恨まれないこと,敵を作らないことばかり考えていたら,批評を書く意味がない。ただし,不必要な誤解を与えないように,批評自体の質を高める努力を今後はしていかねばならない。