「電子音響音楽シンポジウム&コンサート2009」(5月9日,愛知県芸術劇場小ホール)を聴いた。日本電子音楽協会と日本音楽学会,及び「電子音響音楽シンポジウム&コンサート2009」実行委員会(実行委員長松井昭彦)の主催により,水野みか子がその企画・構成を担当した。

開始から終了まで都合6時間以上を要した長いシンポジウム&コンサートであった。盛りだくさんの内容は,特に筆者のように遠方(九州)から駆けつけた者にとっては,「参加し甲斐」感を与えてくれるものであった。

今回,電子音響音楽を主題にしたこの催しを筆者は,“現代音楽”[1]に関する研究会・学会の一種と認識して,それに参加した。主催者から送られてきた案内を見てそう判断したのである。主催者が期待した聴衆は,電子技術などを用いて作られた新しい音響芸術の創作に関心のある作曲家・音楽学者―つまり“現代音楽”の専門家―とその周辺にいる知的好奇心あふれた“現代音楽”愛好者であろうと想像した。

筆者のこれまでの経験では,“現代音楽”のコンサートイベントにおいては,どのような人たちを聴衆として期待しているのかが不明であるものが多い。このようなイベントに出会うと,その主催者は聴衆と本気でコミュニケーションを取る気があるのか疑ってしまう。おおかたの“現代音楽”は耳の愉悦とは縁遠いものだから,そのコンサートイベントが「聴衆となり得るすべての人」に開かれたものではあり得ないと思うからである。

シンポジウムは「電子音響音楽の今日的課題」というタイトルの下,マルク・バティエ(作曲/パリソルボンヌ第4大学),岩崎真(作曲/東京芸術大学),沼野雄司(音楽学/桐朋学園大学),小坂直敏(作曲・音響工学/東京電機大学)の4名のパネラーと,水野みか子(作曲・音楽学/名古屋市立大学)をコーディネーターとして行われた。そのタイトルは包括的で,個々のパネラーが自身の考えや立場を述べるには制限のないものであったかも知れないが,聴衆としては話題の焦点を絞るのに苦労した。そのせいか,何が話し合われたのか,じつは,断片的にしか思い出せない。

バティエは60年の電子音響音楽の歴史を振り返り,その創作現場の特殊性のゆえに研究のための材料が散逸して電子音響音楽が音楽学の研究対象となり得ていないことを指摘し,その問題解決のための取り組みがなされつつあることを報告した。

岩崎は1992年の日本電子音楽協会の設立から今日までの歴史を語ることで,日本の電子音響音楽の一断面を紹介した。筆者は今回はじめて日本電子音楽協会のコンサートイベントに聴衆として参加したので,この協会のことをこれまでほとんど知らずにいた。芸術系音楽の創作に関する情報を,日本の場合,雑誌「音楽芸術」を通して得るしかなく,それが1998年に休刊になって以来,ほとんど他に得る術がなくなってしまった。

小坂は,電子音響音楽の創作に際し,任意の音を引き出すための道具立てとしてインターネット上に電子音色辞書を構築している現状を報告した。これは彼の作曲家としての関心をもとに,役に立つものを設計製作するという工学的ミッションに基づくものである。電子音響音楽が工学技術に大きく依存したものであることを端的に知らしめた。

沼野は電子音響音楽が“現代音楽”の下位ジャンルのひとつとしてとらえられている現状に異を唱え,電子音響音楽と“現代音楽”は異なったものであるという認識を導入することの重要性を述べた。それとともに,現代社会における“現代音楽”の存在感の無さを,実体のきわめて稀薄な“現代音楽”界にインヴォルヴされることだけを願って音楽を作ろうとしている作曲家たちの「共同体幻想」が原因であると指摘した。

今回のシンポジウムで筆者がもっとも共感を覚えたのはこの沼野の発言である。筆者は現在の勤務の関係から,総合大学に在籍する若いアーティストたちの電子音響音楽の創作の現場に立ち会うことが多い。彼らと付き合ってみて分かるのは,彼らはあきらかに“現代音楽”とは異なったものとして自分たちの電子音響音楽を作っているということである。そうかと言って,彼らはロックやテクノポップなどの商業音楽としてその電子音響音楽を作っているわけでもまったくない。筆者は,彼らの作る電子音響音楽を“第三の音楽”と呼んでいる。[2]

今の日本には芸術系音楽の創作に関する情報がないのであるから,“第三の音楽”の作曲者たちは“現代音楽”界の「共同体幻想」とも無縁である。いや,そもそもクラシック音楽界そのものとも無縁であって,彼らの多くは正統的な作曲技術を持たない。彼らにあるのは工学技術であり,音楽以外の他ジャンルの芸術へ強い知的関心である。好きなことを好きなようにやっている彼らには小さいながらも関心を共有する者たちのネットワークや「場」(まさに実体ある共同体)があり,それが彼らの電子音響音楽に強固な存在感を与えているように思う。

冒頭近くで述べたことの繰りかえしになるが,多くの“現代音楽”のコンサートイベントで辟易するのは,そのコンサートが誰に向けてなされているのが不明なことである。その場にいる聴衆よりも「共同体幻想」としての“現代音楽”界の「誰か」に向けてなされているのであろう。そのような「場」におけるコミュニケーションン不全が“現代音楽”の社会における存在感の無さに結びついているように思われてならない。

「電子音響音楽シンポジウム&コンサート2009」を筆者は研究会・学会の一種として認識して参加した。シンポジウムはたしかに研究会・学会としても機能しており,話題の焦点を絞るのに苦労したものの,知的関心を刺激してくれた。ところがコンサートの方は私が期待したような研究会・学会のようにはなっておらず,ふつうの“現代音楽”のコンサートイベントのように推移した。しかも,コンサートイベントとしてとらえた場合,多くの演奏曲目が詰め込まれすぎていて,聴衆に“やさしい”ものではなかった。

コンサートの第1部は「アクースマティック作品(公募入選作品)」と題されて,世界17国62作品の応募の中の8作品が演奏された。作品はメディアに固定された電子音響音楽であり,それらはスピーカを通して再生され,それを聴衆は真っ暗な会場の中で鑑賞するのである。連続して聴かされるため,どの作品が再生されているか,余程の注意を払っていなくては分からない。また,ひとつの作品を聴き終わっても間を置かずに次の作品が再生されるため,耳がリフレッシュされず,筆者はたちまち耳の集中力を失ってしまった。正直言って,聴き慣れない新しい響きに満ちた電子音響音楽を耳だけで聴き取るのは非常に難しい。結局,何を聴いたかほとんど何も覚えていない。

研究会・学会のようにコーディネーターを置いて,作品の概要や作品に含まれる問題などを解説し,その上で作品を聴かせてもよかったのではないかと思う。音楽そのものから耳の愉悦を得ることが出来ないのであるから,言葉を添えることでせめて思考の愉悦を得たい。

コンサートの第2部は「ライブ・エレクトロニクス作品」と題されて,招待作品1曲と,日本電子音楽協会の会員作品7曲が演奏された。招待作品はマルク・バティエ《都鳥》,会員作品は水野みか子《masque》,由雄正恒《Cantata no.1》,福島諭《Amorphous ring1》,小坂直敏《音声転写》,門脇治《remarkable identity》,桃井聖司《…楽園の愉悦》,安野太郎《ののじて2009》である。ほとんどが音楽生成の実演を伴う電子音響音楽である。第1部に比較してここでは音楽生成の過程を目の当たりにすることによって,言わば目の助けを借りることによって,耳の集中力を維持できた。なお,音楽生成は楽器や声の演奏とコンピュータ操作の組み合わせによるものがほとんどであった。

耳の集中力の維持に関する努力は,バティエ,水野,小坂の作品において顕著に必要とした。由雄,福島,門脇の作品においては耳の集中力の維持に関して意図的な努力を必要としなかった。桃井の作品は耳の集中力そのものを必要としなかった。安野の作品は音楽生成の過程が目で確認できない唯一のものであり,コンサート形式で上演されるには不向きなように思われた。

バティエ,水野,小坂の作品は“現代音楽”の下位ジャンルとしての電子音響音楽に属している。筆者は“現代音楽”と同様に構造を聴き取ることに主眼を置いたために耳の集中力の維持に関する顕著な努力を行ったのである。由雄,福島,門脇の作品は “現代音楽”から逸脱しているところがある。これは肯定的な意味で述べている。構造を聴き取るということに主眼を置く以前に,耳の愉悦に近いものを感得したのである。桃井の作品は「芸術」という身振りをあからさまに消していて,“現代音楽”との接点もない。つまりこのコンサートで期待したものと大きくずれていて,筆者は戸惑ったまま聴き取ることを途中で放棄してしまった。

なお楽器演奏者や歌い手は上演のために舞台上に登場するが,作曲者は客席内にいたままである。コンピュータ操作などをするために客席内にいるのであろうが,しかし,上演後には舞台に上がり挨拶くらいはしてほしい。作曲者が特定できないまま推移し,感想すら直接伝えることも出来ずに会場を去ることになってしまった。コミュニケーションン不全である。

上演後に作曲者自身が自作について語り,聴衆との質疑応答があってもよいと個人的には思った。耳の愉悦や思考の愉悦をより確かなものにしたかったからである。
やや否定的なニュアンスで「電子音響音楽シンポジウム&コンサート2009」を論評してきた。しかし,冒頭にも述べたように,このコンサートイベントは遠方から駆けつけた者に「参加し甲斐」感を与えてくれるものであって,筆者は6時間を充実して過ごしたのである。

こうしたイベントを公的なサポート無しで行うことは金銭的にも組織的にも大変なことである。それも当該作曲家が中心になって企画・構成・実行を担当しているのだから,その労力の過重さは想像するに余りある。本来ならば,当該作曲家ではなく,美術館のキュレーターのような存在が音楽領域にもいて,その者が担当すべき仕事であろう。そうであるべきだという思いを込めていることを,否定的なニュアンスの論評に終始したことの言い訳としたい。

[1]“現代音楽”の正確な定義は困難である。この語は時代区分に関わるものではなく,様式に関わるものである。一般に漠然と捉えられている“現代音楽”は,西洋芸術音楽(クラシック音楽)の系列上にあって,調性の影響を受けない音楽すべてのことを指す。
[2]このパラグラフで取り上げられている電子音響音楽については以下の資料がある。中村滋延「報告:視覚音楽への新たな地平―九州大学大学院芸術工学府学生たちの実践を通して―」『先端芸術創造表現学会会報』Vol.1 No.1,pp9-16,http://www.jssa.info/paper/JSSA2009v01n01_3_Nakamura.pdf