『エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々』,ヘルベルト・フェーゼリー

UPLINK ULD-027

世紀末の雰囲気を色濃く残した20世紀初頭のウィーンで活躍した画家エゴン・シーレを主人公にした物語である。

この映画を取り上げるのは,映画の中で使われた音楽に関して気になったことがあるからだ。タイトルには,音楽として,ブライアン・イーノ,アントン・ウェーベルン,メンデルスゾーンの3つの名前が挙がっている。この中で,もっとも耳につくのがウェーベルンの音楽である。文字通り「耳につく」のであって,およそ映画の中の音楽らしくない。音楽の表情の起伏が激しくて,映像に溶け合っていない。映像との関係で言えば,木に竹を接いだようになっている。使われているのは1909年に作曲された《弦楽四重奏のための5つの小品》Op.5である。

ウェーベルンはウィーンで活動をしていた作曲家であり,エゴン・シーレと同じ時代・場所に生きていたのである。ウェーベルンの音楽はその後半生の理知的・禁欲的な様式のイメージが強く,退廃的で性的なエゴン・シーレの絵とは正反対の感じを与える。しかし,この《弦楽四重奏のための5つの小品》はウェーベルン初期の作品で,理知的・禁欲的というイメージはあまりない。世紀末から第1次世界大戦前までのヨーロッパの不安な空気を強烈に表現していて,根源でエゴン・シーレの絵画世界と通じている。

この音楽のことをよく知っている私は,唐突に登場したこの音楽の映画における意味(注:エゴン・シーレの生きていた場所・時間,すなわち時代精神をウェーベルンと彼のこの音楽が共有していたということ)をすぐに了解した。その了解の上において,その登場は唐突ではなくなった。この場合,「耳につく」ことは,構成要素が乖離していることを意味している。私の場合,この乖離を縮めることにこそ「おもしろみ」があった。それはこの映画作者(=監督)の狙いでもあると思う。

けれども,この音楽を知らない者は,この音楽の登場を私のように感じ取れるのだろうか。音楽の外見は必ずしも映像に溶け合っていないし,映画の進行とも関係がうすい。

映画における音楽の使用の難しさ,特に既成の音楽の使用の難しさは以上の様なところにある。このことを改めて考えさせる映画であった。

音楽には,テキストが用いられていない限り,具体的な意味は存在しない。標題音楽であっても,意味と音楽内容との関係は恣意的なものである。音楽内容の解釈は聴く者に委ねられている。その解釈の元は,その者が属する社会的文化的環境に影響を受けて後天的に獲得したものである。したがって,社会的文化的環境が異なれば,当然その解釈も異なる。

西洋音楽が世界音楽となってしまっている現代社会では,音楽内容の解釈が人によってさほど差がないだろうということを前提として映画の音楽が選ばれている。そうしたことは,ハリウッド映画が世界の映画市場を席捲するようになって,それが世界基準化していることに現れている。

既成の曲を映画の中に使用する場合,ある一定範囲の音楽であれば,音楽の外面的な容貌についての解釈には,たしかに,さほど差異を生じないだろう。しかしその反面,その音楽についての情報の有無は,解釈についての差をつくる。《エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々》に用いられたウェーベルンの《弦楽四重奏のための5つの小品》は,私にはその選択が納得できる結果であった。しかし,そうしたことをどの程度の量の人が解釈できるのだろうか。

また,逆に,映画作者が音楽の外面的な容貌についての解釈のみを期待して音楽を用いた場合,その音楽についての情報のために映画作者が期待している解釈が出来ない者もいる。

音楽の外面的な容貌から得る解釈と,その音楽についての情報から得る解釈とをいかにうまく組み合わせるかが,映画作者の腕の見せ所となるのだろう。ヘルベルト・フェーゼリーの場合,ゴダールなどと比較すると,この点に関しては必ずしも充分ではないように思われた。

なお,ゴダールの例で言えば,《新ドイツ零年》(1991)での音楽の選曲は,音楽の外面的な容貌についての解釈と,その音楽についての情報から得る解釈との組み合わせがじつに深く考慮されて作られ,それが非常に効果を挙げている。こうした面でのエポック・メイキングな作品である。