チャン・イーモー「あの子を探して」(1/26,みなみ会館)


 チャン・イーモーの「初恋のきた道」を見た感激がこの映画に足を運ばせた。そして,この映画にも深い感動を覚えた。
「初恋のきた道」とこの作品「あの子を探して」とはまるで二部作のようだ。表面的にはこの2作は異なる。この作品は「初恋のきた道」のような恋の話ではない。二部作のように感じるのは,これらの作品がともに中国の田舎の貧しい村を舞台にしており,ともに小学校が主要モチーフになっているからだ。またともに女性を主人公にしており,それらがともに頑固なまでに自分の思いを貫き通す行動を見せるからだ。

物語りは経済開放改革の流れから取り残された中国の辺鄙な村の貧困さを象徴するようなシーンから始まる。壊れかけたボロボロの校舎の小学校の代用教員として何と13歳の少女が連れられてくる。この少女ミンジはお金に釣られてこの仕事を引き受けただけであって,能力も,適性も,もちろん教育に対する情熱も何もない。こうした者しか教員として連れてこれないという現実を提示することによって,チャン・イーモーは舞台となるその地方が置かれている状況を巧みに説明してしまう。
貧困ゆえに,この小学校では学校を辞めていく生徒が後を断たない。ミンジは代用教員としての1カ月の勤務期間中に生徒の数を減らしさえなければお金を余分にもらえると聞き,そのことだけを念頭に置いて生徒達と接していく。だから生徒への指導はきわめて投げやりである。また生徒にとってプラスになりそうなことも,生徒の数が減ることにつながることはそれを妨げようとする。つまり教師としての自覚などまったくない。生徒とも対等で本気の喧嘩をしてしまうし,自分の仕事すら生徒に押し付けてしまう。
 こうした行動や,まったく笑うことのない頑固さ丸出しのミンジの表情は,この少女が恵まれた環境で育ったのではないことを如実に示す。ただ,それらの奥には深い悲しみがあり,この少女がそれにじっと耐えていることが読み取れ,それはそれで何とも魅力的だ。「初恋のきた道」のヒロインの表に出ている可憐さとは異質の,押し包み込まれ隠された可憐さというようなものがある。(映画では女性主人公に何らかの可憐さがなければ,視る者を惹き付けることは出来ない。頑固さとその奥の可憐さを微妙に備えた主演の少女ウェイ・ミンジ,はまさにこの物語りにうってつけだ。この少女を抜擢したチャン・イーモーの映画センスには脱帽する。)

物語りの内容は,この押し包み込まれたものが少しづつ開かれていく過程が描かれているもの,と言っていい。そしてその特徴は開く役割として第三の人物が設定されているという訳ではないことだ。ミンジの行動がミンジそのものを変えていく。つまり彼女自身によってが押し包み込まれたものが開けられていくのである。最初はお金が目的であった。映画の進行に連れて目的はお金を超えていくものになる。彼女が変わるに連れて彼女の行動の対象である生徒達も変わっていく。その意味で,これは教育をテーマにした映画である。
ミンジが変わるきっかけになったのが,クラスで一番手に負えなかったやんちゃ坊主のホエクーの退学である。彼は貧しさゆえに小学校を辞め,町に出稼ぎに行ったのである。生徒を減らしたくない一心でミンジはホエクーを連れ戻しに町に出かけることにする。ところが,町までのバス代がない。そのバス代稼ぎのために生徒達を動員してレンガ運びをする。その過程で,レンガをいくつ運んだらいくらお金がもらえるかを教室で生徒達と一緒に計算する。これまでの投げやりな授業態度とはうって変わって,ミンジは一生懸命である。生徒達もまた生き生きとして計算に加わる。これはみごとな算数の授業になっている。
レンガ運びは勝手にやったことなので,レンガ工場の工場長は怒りだす。ミンジはそれにもめげずに工場長にレンガ運び賃を要求する。生徒達はミンジの交渉の後押しをする。労働体験が一体感を生んだのであり(これも一種の教育効果だ),ここら辺りからミンジと生徒達の関係が変化してくる。
レンガ運びで得た金でコーラを買い,ミンジと生徒達は生まれて初めてのコーラを一口ずつ回し飲みする。西側文明(?)と経済開放改革の象徴でもあるコーラを通して自分たちの外の世界を,それに併せて貨幣とその対価という関係も体験する。まさしくこれは社会科の授業である。
レンガ運びで得たお金ではバス代に足りず,ミンジは結局徒歩とヒッチハイクで町に出かけることにする。このあたりになってくると,お金のためというよりも,別のものがミンジを突き動かし始める。

訪ねていった部屋にはホエクーはいない。駅で出稼ぎ仲間からはぐれたと言う。そこから町でのミンジのホエクー探しが始まる。この探し方の執念たるやすさまじい。
チャン・イーモーは,「秋菊の物語り」でも一見無謀とも思えることをすさまじい執念でやりとげる女性を描いている。「初恋のきた道」でもすさまじい執念で恋に立ち向かう女性を描いている。そしてこの「あの子を探して」の少女ミンジ。視ている者はこうした行動を可能にする「秘められた何か」に知らず知らずのうちに魅かれていく。その秘められたものとは理不尽へのどうしようもない怒りであり,深い悲しみだと思う。チャン・イーモーはそうしたことを映画の中ではヘタに説明はしない。視る者の感じるままに任せる。
貧困ゆえに10歳を過ぎたばかりで出稼ぎに行かされ,さらに町ではぐれてしまっても仲間に放っておかれるホエクーの悲しみ。この悲しみにミンジ自身の悲しみが徐々に同化していく。この同化していく過程で,探し方の執念に拍車がかかる。(ミンジのホエクー探しの描写も秀逸。)
ミンジはついにテレビ番組の「尋ね人」コーナー出演に漕ぎ着ける。様々な思いが渦巻いているのだろう,ミンジは司会者の質問になかなか応えられない。やっとの思いでカメラの向こうのホエクーに呼びかけるミンジ。途端にミンジの目から涙がほとばしる。押し包み込まれていた可憐さがここで一挙に表に出る。このタイミングは絶妙で,ここではっきりと彼女自身の怒りや悲しみの深さを見ることが出来る。ミンジは,お金のためでもない,誰のためでもない,もう自分のためだけに(自分の悲しみを越えるためだけに)ホエクーを探しているのである。

さて,この映画でもラストはいつもながら見事である。ホエクーは無事に見つかり,ミンジとともに村へ帰る。ミンジは代用教員の期限を終えようとしている。帰任してくる正規の教師のために,ミンジは生徒一人ひとりに黒板に一つづつ好きな字を書かせる。それを生徒全員が読み上げる。生徒達はミンジへの思いを込めて字を選んで書く。これも見事な国語の授業になっている(これは漢字文化圏独自の教育シーンである。文化としての漢字のよさを感じることが出来て,漢字文化圏の人間には胸に迫ものがある)。ただひとりホエクーだけが3文字書いてもよいかと尋ね,「魏老師(ウェイ先生)」と書く。つまりミンジの名前に先生の尊称を付けて書いたのである。ホエクーは感謝の念をその字に託したのである。生徒達が声をそろえてそれを読み上げる。まさにミンジはこの1カ月で,自分の怒りや悲しみを越えて,真の意味での「先生」になったのである。そのことを象徴するシーンである。
この映画では登場人物はべらべらと自分の感情を語ることはしない。テレビでの「尋ね人」のコーナーで涙を流す以外,泣いたりして感情を表に出すこともない。感情表現の薄っぺらさがまったくなく,それゆえに表現そのものに奥深さを感じ,現実感は強烈だ。ホエクーは感謝の念を「魏老師」の3文字の板書だけで表す。このことが,単なる感謝を言葉以上に,この映画でチャン・イーモーが表現したかったこと —- 押し包み込まれたものが少しづつ開かれていって生まれ変わっていくこと —- を視る者に再確認させ,映画の内容を胸に刻み込ませるのだ。

 (2001年2月03日,中村滋延)