膨大な量の著作を次々と発表し、それらがいずれも好調な売れ行きを示し、リベラル系の文化人や政治家の理論的支柱のように慕われて、ファンも多い。一方で武道家として道場までも運営し、軟弱な文化人とも一線を画す。思想家、内田樹。

2004年頃にはじめて彼の著書『ためらいの倫理学』を手にとって以来、彼の書くものに惹かれ、出る本を片っ端から購入して読んだ。読みやすくて、一種の「癒し」効果のようなものさえその著作にはあった。読者を惹き付けるその筆力は文句なしに「すごい」と思ったし、「こういう人が必要」という思いは今もじつはあまり変わらない。

だが、あることを機会に彼の本を熱心に読む気がしなくなった。それどころかそれまで読んでいた彼の本をまとめて破棄したことさえある。関心が一挙に醒めしまったのである。ただしその後時間が経って落ち着いてからは、彼の文をまったく読まないわけではない。twitterなどの彼の発言をリツィートすることもある。しかし醒めてしまっていることには変わりがない。

では「あることを機会に」の「あること」とは何か、それを以下に述べてみたい。時は2012年3月20日火曜日。東日本大震災のほぼ一年後。少し前に評論家の吉本隆明が亡くなっていた。

この日、福岡のSaint Cross社の主催によって「鼎談:内田樹×中沢新一×森田真生」が福岡県糸島の「懐庵」というところで行われ、私はそれに参加し、聴講した。場所は非常に不便なところで、筑前前原駅から迎えの車で20分ほど行った人里離れた林の中。会場はお寺の本堂のような大きな和室。参加費は一人15,000円でお昼の軽食(おにぎり+豚汁)込み。参加者は100名前後か。この鼎談開催の情報については内田のtwitterから得た。

森田真生(数学者)は当時26歳で、頭のよい青年ではあるが,この種の鼎談の進行役をするにははっきり言って役不足。内田にしても中沢にしても自分たちが過去に書いたいたことの断片的な反復。まじりあっていたとは言えず、話しが弾まない。そこでハプニングが。

途中で森田の友人達が鼎談に割って入って質問をし始めた。その中の一人(後で坂口恭平と判明)がかなりしつこく訳の分からぬ質問をし続けた。いきなり内田が怒って立ち上がり「オレは帰る」と言い出して会場を出て行った。あわてて森田が後を追いかけた。急遽,10分間の休憩。休憩後なんとか再開したが,当然のことながら鼎談が弾んだとは言えない。会場も気分的に落ち着かない雰囲気が。

じつは鼎談が始まってまもなく,内田も中沢も「これまでと同様,自分たちは今日のためには特別に何の準備をしていないが,だからこそ鼎談がおもしろくなるのだ」というようなことを説明。そこに陥穽が。鼎談が脱線し混乱したらそれへの対処のしようがない。その結果が,「オレは帰る」という内田の最悪の対処となった。

一人15,000円の参加費を徴収した会に準備なしでもどうにかなると考えるのは,はっきり言って「狎れ」であり「驕り」としか私には思えない。そして不便な場所まで15.000円の参加費を払って集まった参加者を放り出して「オレは帰る」という発言は驚いたし、理解できない。

最後の質問時間に私は質問した。「数日前に吉本隆明が亡くなり、新聞に内田先生が追悼文を書かれていました。死ぬ前の吉本隆明は原発推進の発言が目立ったが、原発反対の内田先生は吉本隆明のそうした発言に対してどのように思われているでしょうか」と。内田はなぜかその質問に対して答えようとしない。中沢新一が代わりに「吉本隆明はけっして原発そのものを推進する立場ではなく、ただ、科学によって進歩されたものは科学によって制御され得るという立場を人類は放棄してはならないと考えていた」というようなことを答えていた。

鼎談後、控え室において内田・中沢・森田と参加者との懇談の機会も用意されていたが、内田は不機嫌で、彼に話しかけようとする参加者は少なかった。私は話しかけようとしたが、とりつく島もない感じ。じつは鼎談開始前にも、参加者とは一切挨拶も笑顔も交わさない内田を見て、著書から受ける印象とはまったく異なる点に驚いた。この日はたまたま内田の体調か精神状態が最悪だったのかも知れない。

が、彼が書物やブログ、SNSで多くの人との温かい友情関係・信頼関係を吐露し、自分は多くの人から愛され好かれているとアピールしているのを見ると、あの糸島での鼎談時の彼の態度との間の落差に割り切れぬ思いを拭うことができないのだ。