1はじめに

本稿は,作曲家としての私・中村滋延が制作してきた映像アートについての論述である.論述は創作ノートというスタイルでなされる.客観的な結論を導き出すのではなく,一人の作家の創作にまつわる思いを自由に述べたものである.

作曲家としての私の活動の特異性を挙げるとすれば,映像アートに手を染めていることであろう.その映像アートを私は「映像音響詩」と名付けている.

本稿では,まず映像音響詩とは何かについて述べる.次に映像音響詩には映像と音楽という2種類の時間が存在し,その統合によって新たな時間,つまり新たなリズムや速度感が生じることを論じる.その次に,実録映像・実録音響を扱うことが出来るという映像メディアの特性が,聴覚表象と視覚表象に具体的意味与えるだけでなく,それらの統合によって新たな具体的意味を生じさせる可能性を論じる.それらを踏まえた上で私がこれまで制作した15の映像音響詩について簡潔に解説紹介する.作曲家による映像アートとしての独自性を知ってもらいたいからである.

2.映像音響詩とは何か

1980年代初めから私は自身の作曲活動の柱のひとつとして,ミュージックシアターの制作上演活動を行なってきた.ミュージックシアターはステージ上の視覚的要素(演奏者・登場人物の動作や,舞台装置や照明など)を構成に取り入れた音楽作品のことである.映像音響詩は,このミュージックシアターでのステージ上の視覚的要素を,テレビモニターやスクリーンの映像に換えたものである.

視覚的要素を音楽の構成に取り入れるとは,簡単に言えば以下のようなことである.

音楽はひとつの音からだけでは音楽にならない.複数の音が集まり,相互に関係づけられてはじめて音楽になる.音は他の音との関係づけによって構造的意味を持つ.音の構造的意味とは,安定感,緊張感,解放感などのことで,調性音楽においては主音や導音,ドミナントやトニカなどの機能名としてとらえられるものを指す.

この構造的意味は,そこに視覚的な情報が加わることによって,増幅・縮減,変容され,さらには新たな意味が生成される.例えば,今ここに,弱音で鳴らされたピアノの「ド」の音があるとする.この音を鳴らすのに,ピアニストが高く上げた腕を思い切りよく鍵盤に叩きつけて弾いたとしよう.聴衆は,ピアニストの様子から大音量の和音が鳴ることを予想するだろう.ところが,鳴ったのは弱音のドの音だったのである.そこで生じるドの音の意味は,「意外」「はぐらかし」というものであろう.この意味は,視ることなしでは生まれてこない.つまり,視覚的情報が音に構造的意味を与えたのである.

3.映像の時間と音楽の時間

映像表現が時間軸上に展開される以上,そこにはリズムと速度感——実際には出来事の密度とその変化——が生じる.例えば,ショットの切り替えがリズムをつくる.あるいは一つのショット内の事物の動きもリズムをつくる.ショットの切り替えの頻度が速度感を決定し,ショット内の事物の動きそのものが速度感を決定する.さらにひとつのショットにおける事物の数や事物相互の外見の違い,事物の個々の動きの向きなどもリズムや速度感に影響を与える.

音楽がそれ自体でリズムや速度感を持つことは自明のことであるが,映像音響詩においては映像との絡みで音楽のリズムや速度感が変容する.もちろん,音楽との絡みで映像のリズム感や速度感が変化するという逆の関係も成り立つ.その上で双方が統合されて全体として新たなリズムや速度感が生まれることもある.ここまでくると,リズムや速度という次元よりも「出来事の密度」としてとらえるべきかも知れない.そして,時間軸上の構成においては,様々な密度をどのように配分・配置するかも工夫すべき非常に重要な要素になる.

4.物音の意味

音楽の構成要素としての「楽音」には構造的な意味はあるが具体的な意味はない.ところが映像のサウンドトラックを構成する物音には具体的な意味がある.例えば,足音,ドアをノックする音,自動車の急ブレーキによる停止音,水道の蛇口から落ちる水滴の音,など.これらは外示的な意味である.

ところが物音にはそれが聞こえてくる状況によって別の意味が生じることがある.例えば,足音が孤独を,ドアをノックする音が運命を,急ブレーキによる自動車の停止音が人生の転換点を,断続的に聞こえてくる水滴の音がやるせなさを,など.これらは共示的な意味である.これらは定まった意味ではまったくない.状況のわずかな違いによって様々な意味が生じる.その状況づくりに視覚表象が大きな役割を果たす.

もちろん、それとは逆に,聴覚表象を構成する物音が視覚表象全体やそれを構成する素材に働きかけて,様々な共示的な意味をそれらに生じさせるということもある.

映像音響詩の構想・制作にあたっては,構造的意味の側面にのみ着目するのではなく,これらの具体的意味を重要な要素として扱っている.それによって実に多様な,場合によっては制作者の制御を超えた具体的意味を生じさせることもできる.視覚及び聴覚両表象に実録の素材(実録映像,実録音響)を扱うことが出来るという映像メディアの特性が,このことを可能にする.

5.映像音響詩,その具体例

以上に述べたように,音の構造的意味を生成・変容する聴覚表象と視覚表象との関係性,作品自体のリズムと速度感を新たに生成・変化する視覚表象と聴覚表象との関係性,個々の素材の具体的意味を新たに生成・変容する視覚表象と聴覚表象との関係性など,視覚的要素と聴覚的要素の間には多様な関係がある.映像音響詩の構想・制作はこうした「関係づけ」を発想の出発点に置いている.しかし,実制作の中ではほとんど無意識的にでそれらの関係づけを扱うことになり,制作後に第三者的な視点から分析してはじめてその関係づけに気付くことも多い.

むしろ発想の起点は内容と実制作における表現技術である.「関係づけ」自体は無意識的に常になされていることを前提にして,ここでは「発想」を軸に,これまで中村が制作した映像音響詩15作品について解説紹介する.

5.1.映像と音響のモンタージュ

ここでいうモンタージュは,もともとは無関係であった素材を寄せ集めて一篇の映像アートに仕上げる,という程度の意味である.コラージュと言わないのは,素材そのものを作者自らが用意することで,素材間にある程度の統一性がおのずと潜んでしまうからである.

Walk》(1994)の音響パートは,足音を中心とする音素材を用いて,音強・音色・音高・音域・リズム・音群の密度などの次元で様々な変化を作りだすことによって構成されている.言わば足音を音素材とした絶対音楽である.映像パートは足や足元,歩く人々の姿,歩く人の視線がとらえた風景などを素材としている.足音に対して,足や足元の画像を同期提示したり,あるいは時間的に遅らせて提示したり,あるいは画面内での位置を変えることによって,その音のイメージはかなり変化する.音のみだと限界があることを,視覚的要素を構成に取り入れることで超えようとする試みである.

この作品の音響パートはコンサートにおける音楽単体として高い評価を得た.Leonard Music Journal, Volume 5 1995 (MIT Press, Cambridge MA, 1995) に日本を代表するコンピュータ音楽のひとつとして選ばれ,付録CDに収録された.

Epitaph》(1995)は作者の父の死後に見つかった遺品の“ホームビデオ”の中のその父自身の姿と声が主要素材である.この作品の制作契機は個人的な思い入れの非常に強いものであり,そのような場合,感情表現過多によって作品としての構成が破綻することが多い.また主観的になり過ぎて第三者である視聴者を辟易させることも多い.したがってこの作品においては客観的な視点で「構成すること」を何よりも優先された.そのために採った方法が素材の数的制限である.作品はそれら素材の徹底した反復で成り立っている.ただし素材は反復出現の度に様々な変化を受ける.例えば,各パートの反復の周期が乱れたり,そのことによって両パートの同期が揺らいだり,他の素材と置き換えられたり,他の素材と重ねられたり,素材自体が変形・変調されたりする.映像と音響という二つの時間の統合が反復出現の際の変化をより多様なものにしている.

この作品は「1996年国際ビデオアート賞」(現在は国際メディアアート賞と改称,SWF南西ドイツ放送及びZKMメディアアートセンター主催,ドイツ)のノミネート作品となり,ドイツ,オーストリア,スイスを中心にテレビ放映され,また1997年の「l’immagine leggeraパレルモビデオアートフェスティバル」(イタリア)のコンペティション部門でも入選し上映された.これらのことが1997年から1998年にかけての私のドイツZKM(芸術とメディア工学のためのセンター)での滞在芸術家としての活動を可能にした.

5.2. 音楽形式の応用

筋書きが存在しない映像アートを構成する一つの手立てとして,音楽形式(やや変形されたソナタ形式)を下敷きにして音響・映像両パートの素材を並べて作った作品が《陰陽(Yin & Yang)》(1995)である.個々の素材にはそうした形式を構成するための本質的な構造的意味は存在しない.恣意的に形式的図式に素材を当て嵌めていっただけである.ところがこの図式が素材の展開に関するインスピレーションを与えてくれた.

この作品は「1995年国際ビデオアート賞」のノミネート作品となり,私の映像作品が作曲家の“独り善がり”では必ずしもないことのひとつの証明のように感じ,以降の映像作品制作に弾みがついた.

5.3. 評論としての映像音響詩

sabi》(1998)は義太夫,《愛の変容》(2000)はピカソの芸術,《リアッセンブリー》(2012)は小津安二郎の映画『東京物語』の,それぞれの素晴らしさを評論として表現した映像音響詩である.評論家は言葉を用いて作家及び作品を論じるが,私は音響と映像を用いて論じようとしたのである.

このタイトルは日本語の「わびさび」の「さび」という言葉から取ったタイトルである.義太夫を音の主素材とした電子音楽と,ZKMのある都市カールスルーエで生活する筆者自身の姿を抽象的形象に変調したビデオ映像とによる作品である.

この作品には3つの基本的アイデアがあり,それらが入れ子構造的に組み合わされている.その3つのアイデアの1番目はモチーフとなった義太夫「熊谷陣屋の段」の筋書きを要約した標題音楽をミュージック・コンクレートの様式で作ること.2番目はその内容を象徴的かつ抽象的に映像で表現することであった.3番目はこれらの制作時に,思考し・悩み・異国での生活で様々に物思いする作家としての「私」を,特に彼我の文化の違いに思いをめぐらせる私自身の心象風景を,音と映像で描くことであった.

カールスルーエ滞在中,頻繁にオペラに通っていて,オペラの面白さに圧倒される毎日であった.しかしそのうちに,西洋でオペラが最も盛んであった時代に,日本では何をやっていたのか,とふと考えた.それを考えはじめた頃に,義太夫を偶然に放送で聴く機会があり,心の襞を腑分けするかのような繊細な表現力に感嘆した.義太夫はオペラに匹敵すると思い込み,急遽義太夫のCDを日本から取り寄せ,毎日じっくりと聴くようになった.そして,その義太夫の魅力を自分なりに表現してみようと考えてこの作品を作ったのである.この作品は画像と音による義太夫に関する一種の「評論」である.

愛の変容》は愛人マリー・テレーズをモデルにした絵画作品を素材として構成した.構図の素晴らしさを証明するために作品を分解し,それを動かし,時には記号を書き込んだりした.

素材は愛人マリー・テレーズをモデルにした絵画作品.構図の素晴らしさを証明するために作品を分解し,それを動かし,時には記号を書き込んだりした.当然のことながら,著作権侵害,特に同一性保持侵害を指摘する人がいることも承知しており,公開での上映を控えている.

音響においてもマリー・テレーズを前にしたピカソの獣欲を表現するために大胆な音楽コラージュを試みた.

リアッセンブリー》は小津安二郎の代表作で世界的にもきわめて評価の高い歴史的名作『東京物語』を再構成した作品である.再構成は東京物語を成り立たせている構造を明確にすること,画面構成の卓越性を明らかにすること,構造への音楽を含む音響の関与の実態を明らかにすることを目指してなされている.

『東京物語』の構造は物語多くに見られる対比を軸としたものである.プロップが物語の基礎構造として明らかにした「行って帰る」構造が「東京物語」には端的な形で存在する.行く前の状況,行ってからの状況,さらに帰った後の状況の3つを対比を軸に画面構成と音響によって象徴的に,しかし明確に描こうとした作品である.

5.4. 抽象型映像音響詩

これらの映像パートは幾何学図形とその運動から成り立っている.1920年代にエッゲリングやハンス・リヒターらが創始した「絶対映画」の現代的展開である.したがって映像そのものからは具体的意味を感じることは出来ない.まったく抽象的な構成である.ただしそこに具体音を中心とした音響パートがつくことで,映像パートに様々な意味やイメージが付与される.その意味やイメージは視聴者を縛るものではなく,むしろ視聴者が自主的な解釈を通して得るものである.

Life》(1999)の映像パートの構成は幾何学図形とその運動のパターンの可能性を追求することを優先させた文字通りの抽象映像である.音響パートをまったく考慮せずに先に映像パートを仕上げ,その映像パートにおける図形の動きに自由にインスパイヤされる形で音響パートを仕上げていった.

Common Tragedies in Urban life》(2000)は「都市生活の中のありふれた悲劇」というタイトルそのものが指し示す物語が幾何学的図形の動きによって描かれている.ただし物語といっても都市生活の様々な悲劇を断片的に並べていったものでしかない.音響パートは個々の断片の意味を理解するヒントとして構成されている.ただし抽象映画であり,意味は明確に伝わることもなく,作者としても伝えるつもりもない.じつは制作を始めると物語を描くことよりも,構成することに自体に熱中してしまったのである.視聴者はみずから物語を紡ぐことは可能ではあるが,そのことにとらわれる必要はない.

 

5.5.引用型映像音響詩

新聞・雑誌の写真の切り抜きやニュース映像の断片を,そのメッセージ性を維持したまま,素材として用いて映像パートを構成したのがこの型である.音響パートは,その映像パートの意味を強調するかのような具体音と,意味とは無関係な“音楽”から成る.“音楽”とは狭義の音楽ではなく,いわばミュージック・コンクレートのような広義の音楽を含んで用いている.

映像パートのメッセージ性は素材の造形的な加工によって様々に変容される.“音楽”は映像音響詩の時間芸術としての持続性を確保するために鳴らされる.しかし「オブジェ化」されて,つまり本来の音楽構造とは無関係に音量変化が加えられて,音楽的持続は時に曖昧になる.そのことで聴取者が安易に音楽的持続に身を委ねて映像への注視が妨げられることのないようにしたのである.

Play》(1998)の映像パートは様々なボールゲームの動きを真上からとらえた様子をヒントにしている.映像にはテニス,バレーボール,サッカー,ボウリングなどを思わせる動きが現れる.タイトルのプレイはボールゲームのプレイでもあるし,引用映像・画像の素材からも想像されるように時には男女間のプレイでもある.

Lust》(2000)の画面には7つの長方形が横に並び,その長方形が縮んだり伸びたり,分割されたり,時には消えたりなどの抽象的な動きを見せる.その長方形の中にはニュース映像画像などがはめ込まれ,具体的形象が社会的なメッセージを断片的に発し続けていく.7つの長方形が並ぶ図は,背景の黒が前面となって,それが檻の枠と鉄格子のように見えるようにもなっている.7つの長方形の中に盛られた社会的メッセージは、長方形自体の動きによってその意味やイメージが変容される.

5.6. 動く造形美術としての映像音響詩

曼陀羅幻想》(2005)は曼陀羅の持つ不思議な魅力を,既存の曼陀羅や作者の空想による曼陀羅を用いて自由奔放に表現しようとした作品である.曼陀羅は静止画像でも十分に魅力的なのであるが,それを動画像として扱うことで,まさに動く造形美術として描くことで,その魅力にさらに迫ろうとした.音響パートはもっぱら曼陀羅の動きを強調する.

Impatience》(2008)は,たった1枚の写真だけを素材にしたものである.その写真とはアンコールワットのデバダー(女神)のレリーフを写した写真である.たった1枚の写真をもとにし,それを細かく分割してアニメーションとして動かしたり,様々な画像処理を加えたりして,「デバダーの主題による変奏曲」の趣を表出した.音響パートもきわめて限定された素材(極度に短くされた話し言葉の断片群)を中心に,素材の組み替えや,新たな音素材の付加によって変化をつくり出した.

1枚の写真だけを素材とすることで,映像音響詩がまさに「動く造形美術」としての側面があることを強調できたように思う.

5.7.旅行記としての映像音響詩

ナーガ変奏曲》(2005)はいわば「旅の思い出」映画である.私はカンボジアのアンコール遺跡に惹かれ,1990代の終わり頃から何度かそこを訪れている.その際に撮った写真やビデオを素材にした作品である.

映像素材は,カンボジアのアンコール遺跡に存在するいくつかのナーガ像(蛇神)と,アンコール遺跡の町シェムリアップの日常の風景と,「記憶をたどる」ということを象徴するテレビモニターのホワイトノイズである.主要素材は,もちろん,ナーガ像であり,それが様々な変調を受けて(つまり変奏されて)出現する.

音響の主要素材はアンコール遺跡やシェムリアップでの物音としての人の声と音楽である.ここでは,まさに物音の具体的意味や音楽的ニュアンスが重要視されている.

TAMEIKI》(2011)はラオスの「旅の思い出」映画である.その旅は叙事詩『ラーマヤナ』がラオスの芸能や造形美術にどのように描かれているかを調査するものであった.思い出は寺院の壁に描かれたレリーフやモザイクの美しさに関係するもので,まさに感嘆のため息をつきながらそれらを見ていたことにタイトルが由来する.この作品ではそれらのレリーフやモザイクを抽象的形象に分解して素材化し,素材の位置や動きの変化によって絶対音楽的に構成していった.

音のパートはラオスの寺院での読経の印象から想を得たものであるが,結果的には読経とはまったく似つかないものになった.

5.8.物語としての映像音響詩

映像音響詩として物語をテーマに,それを明確に描くことはあまり行わない.《Samsara》(2008)は例外的である.インド起源の叙事詩「ラーマヤナ」の世界を象徴的に描こうとした作品である.ただし象徴化は主観にもとづくものなので,筋書きがはっきりと視聴者に伝わるわけではない.

主要映像素材はカンボジアの大型影絵劇スバエクトムの人形であり,その上演の様子である(図14).主要音響素材はスバエクトムの上演時の音楽や朗唱,観客のおしゃべりやざわめきである.それらを芸術的発想によって時間軸上に配分・配置する時に,ラーマヤナの筋書きに添っていったのである.

6.おわりに

映像音響詩についてその語の意味するところを論じ,映像と音楽という複数の表現領域を統合する意義を論じた.そしてその具体的成果としての作品を紹介解説した.しかし作品提示を伴わない解説は隔靴掻痒の感は免れないだろう.全作品の提示の機会を各所において増やすようにしたい.

これまでの経験において,映像音響詩を聴覚表象と視覚表象の統合として受容することは簡単ではない.多くの場合,視覚表象のみが意識されるようだ.もちろん視覚表象への意識のされ方には聴覚表象が影響を与えていることはまぎれもない.だが,映像音響詩創成の原点が「音楽の構成に視覚的要素を取り入れる」ということである限り,聴覚表象への意識の比重が視覚表象を上回ってほしい.そうすることで両者はまさに統合される.個人的にはそのためのリテラシー教育の必要性を感じている.

(本稿は日本学術振興会平成22-24年度科学研究費補助金挑戦的萌芽研究課題番号22652021「音の様態・意味の両観点に着目した映像リテラシー理論の構築」の一環として執筆.そのもととなったのは,平成23年12月に東京電機大学で催されたACMP/Asia Computer Music Projectにおける口頭発表.)