12月17日、京都のLUMEN galleryにて「松本俊夫先生追悼 京都時代の映像展」を見る。日本を代表する映画監督・映画評論家・実験映像作家である松本俊夫(1932-2017)の京都における追悼作品上演会である。

京都時代とは彼が京都造形大学及びその前身の京都芸術短期大学に勤務していた1985年から2003年までを指す。ちょうどその頃、私は同じ短大・大学の映像専攻で映画・映像アートの音・音楽を教えるという立場で松本俊夫と一緒に仕事をした。

松本俊夫は映画・映像アートの教育にとって音についての授業実習は不可欠という立場で、京都芸術短期大学に映像専攻を設立する時にもその関わりある教員を求めていた。その関係で1984年に映像専攻設立準備で彼が滞在していた京都市内のホテルに呼ばれて彼と初めて会った。その時のことをいまでも鮮明に覚えている。冷静で頭の回転が良さそうな人、というのが第一印象。芸術家というより学者・評論家の雰囲気が濃厚で、『薔薇の葬列』のような映画を作る人にはとても見えなかった。

当時、彼は国立九州芸術工科大学画像専攻学科の教授をしていた。5年ほど勤めていたのだが、設立されて間もないまだ評価の定まらない短期大学に着任することを決めていた。どうしても本格的な映画づくりをしたかった松本俊夫にとってはそれを許さない国立大学の環境は耐えがたかったのだろう。事実、彼は京都芸術短期大学に移ってからはすぐに映画『ドグラマグラ』を制作完成させた。

街なかの映画館で上映されるいわゆる“商業映画”に触れこそすれ、実験映画や絶対映画、個人映画などの映像アートに触れる機会がほとんどなかった私にとって、松本俊夫が京都芸術短期大学内で示す映像アートの世界は衝撃的だった。松本の主導で毎年学内で行われたイメージフォーラムフェスティバル京都公演や特別授業での松本俊夫解説付きの映像アート上映会などを通して、時間・造形・音のコンポジションの世界に眼を開かされた。また映像アートが「物語」を既製の言葉にとらわれずに表現できることにも大きな魅力を感じた。1990年代後半以降、私が「映像音響詩」という映像付きの電子音楽というジャンルを創成し、映像アート作品をつくるようになったのも京都芸術短期大学における松本俊夫の圧倒的な影響による。

松本俊夫は九州芸術工科大学から京都芸術短期大学・京都造形大学に転任してきたが、後に私がその逆(京都芸術短期大学・京都造形芸術大学から2001年に九州芸術工科大学・九州大学芸術工学部への転任)をすることになったのことに、じつは松本俊夫との個人的な因縁をつよく感じている。

さて、今回の上演作品、いずれも過去に鑑賞しており、今回約20年ぶりの鑑賞になる。

『EEコントロール』(1985)『SWAY』(1985)『VIBRATION』(1986)はフィルム作品。いわば「動く造形美術としての映像アート」であり、物語映画ではない。素材のコマ撮り編集に主眼を置いた作品で、様々な撮影・編集技術を駆使している。その技術はいずれも素晴らしく、今見ても新しい。素材を限定し、それを反復しつつ変化させていく手法は音楽における変奏反復の技法を思い起こさせる。もちろん画面からいろいろなメッセージを受け取り、鑑賞者自ら物語を紡ぎ出すことも可能だ。

『ENGRAM=記憶痕跡』(1987)はフィルム作品、『Old/New=気配』(1990)と『DISSIMULATION(偽装)』はビデオ作品。これらは物語映画の要素があるが、もちろん単純な筋書きが存在するわけではない。いずれも画面に松本俊夫自身が登場し、彼の勤務先や彼の部屋が舞台となっており、彼の独白が進行を司るので、いわゆる「個人映画」の気配が濃厚だ。彼の著述世界とおなじ雰囲気が作品全体に漂う。解釈の可能性に満ちており、鑑賞の度に理解が深まる作品だと思う。ただ、ビデオ作品は画質音質の劣化がはげしく、私が音楽を担当した『DISSIMULATION(偽装)』におけるサウンドトラックは当初イメージしたものとはまったく別物になっていて、非常に残念。

ところでこの『DISSIMULATION(偽装)』、そしてその前作の『Old/New=気配』のそうだが、ペシミズムが色濃く現れていて、そのことに少なからずショックを受けた。諸事情で思うように映画が撮れない、学内事情で意図する映像教育も思うように機能しない、学内上層部の評価も副学部長止まり、などの事情が影響したのだろうか。幼少期から壮年期の自身の写真を次々と映し出している一連のシーンや自分の死骸を映し出したシーンなどには、「オレの人生こんなはずではなかった」という口惜しさをメッセージとして受けとめざるを得ない。