今夏の終戦記念日前後、テレビで先の大戦(=第2次世界大戦/日本の関わりを強調すると太平洋戦争/中国大陸での戦闘を含めると大東亜戦争)についてのドキュメンタリー番組を集中して見た。なぜあのような無謀な戦争をし、多くの人々を死に至らしめ、戦争終結の時期を誤ったのか、などといろいろ考えさせられた。

そこで考えるためにかつて読んだ本を読み直してみた。自宅の本棚に保阪正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書、2005年)と山崎雅弘『戦前回帰』(Gakken、2015年)の2冊。他に白井聡『永続敗戦論』(atプラス叢書)を探したが見当たらず。

保阪正康の『あの戦争は何だったのか』は、まったく勝ち目のない戦争になぜ日本が突き進んだか、戦況が圧倒的に不利なのになぜ日本は戦争を継続したのか、膨大な数の死者を出してもなぜ日本は降伏をしなかったのか、を解き明かしていく。日本軍の機構や天皇神権説、明治以来の空虚な神国思想、欧米への劣等感の裏返しの選民意識、などが「なぜ」の答えだ。

私はそれらの答えよりも答えに関わる個々の事象に唖然とした。個々の事象はすべて戦争を主導した日本人には「理性」が欠けていたことを示すものであった。特に私にとってショックだったのは、日本が自らが始めた戦争にもかかわらず,日本が戦争の目的をはっきり定めていなかったことだ。どの状態になれば勝ちになり、どの状態になれば負けになる、ということを考えずに始めてしまった戦争なのだ。目的がはっきりしていればその目的が叶って時点で停戦の交渉に入り、叶わないことが明らかになった時点で降伏できたはずだ。「玉砕」なんて戦争の意義(もし意義があるとすれば)と何の関係もない概念を押しつけて、死ななくてもよい膨大な数の人々を死なせてしまった。

山崎雅弘の『戦前回帰』は先の大戦を主導した政権中枢と現行の安倍政権との類似性を指摘して、警告を鳴らす。「敗戦」という事実と、それに関わって多くの人々(日本人のみでない)が命を失ったという事実の前に、まずは反省ありきなのだが、現実にはそれをしたくない人々が集まる「日本会議」なる組織がある。戦前回帰を目指すもので、安倍政権と深い関わりを持っている。彼らが参拝する靖国神社は先の大戦の主導者たちを免責する装置となっていることを山崎は指摘する。

山崎は先の大戦の負けを総括しているが、読んでいて驚いたのは、西欧諸国の負け方の潔さである。「無駄な犠牲を防ぐ」「1回の戦争で負けてもそれですべてが終わるわけじゃない」という考え方で、これは国民の命を無駄にしないという、戦中戦前の日本とは真逆の考え方に基づいている。

戦前回帰をめざす動きを「大日本病」と山崎は捉えており、最後に「大日本病の再発はどうすれば防げるか」という節を設けていくつかの方法を提示している。

  1. 際限のない「褒め言葉」に注意すること
  2. 二者択一や「敵と味方」の二分法を拒絶すること
  3. 謙虚な思考を心掛け、傲慢な思考に陥らないこと
  4. 客観的視点と合理的思考を常に持っておくこと
  5. 文化や信仰と「政治」の境界を意識すること
  6. 「形式」ではなく「実質」で物事を考えること
  7. 独立した思考を持つ「個人」であり続けること

これを読むとごく常識的な内容で、これが出来ないことで成り立つ「戦前回帰」は思想以前、非理性そのものだと思う。ただそれだけに戦前回帰の方向はeasyなので、それにはまりこむ人が続出する怖れも。それが怖い。