はじめに

内容や趣向がきわめて対照的な映画をふたつ続けて見た。映画表現の特質についてあらためて考えさせられた。

その映画とは、ダニエーレ・ルケッティ監督の『ローマ法王になる日まで』と韓国映画ナ・ホンジン監督の『哭声(コクソン)』である。場所はいずれも京都シネマ。

『ローマ法王になる日まで』は2013年にローマ法王になったホルヘ・マリオ・ベルゴリオの半生を描いた映画。『哭声(コクソン)』は國村隼が重要な役で出演して高い評価を得たことが話題になっているサスペンス映画。

前者は事実に基づく映画であり、結末も最初から明らかだ。後者はある意味で支離滅裂な展開を見せる映画で、結局何が真実なのか最後まで分からない。

『ローマ法王になる日まで』

まずは『ローマ法王になる日まで』について。映画は軍事独裁政権下(1976〜1983)のアルゼンチンを、後の法王フランシスコことベルゴリオが神父としてどのように生き抜いてきたかを描く。

恥ずかしいことに私はアルゼンチンが軍事独裁政権であったことを知らなかった。アルゼンチンでは1978年にサッカーワールドカップが催され、そこでアルゼンチンが優勝し、国民は喜びにあふれているように見えていたが、じつは軍事独裁政権下の暗黒の時代であったのだ。それを象徴するかのような衝撃のシーンが現れる。反政府活動家を拉致し、薬で眠らせて飛行機から投下して殺すという残虐な処刑のシーン。軍事独裁政権は容赦なく反政府活動家を圧迫した。監視社会で、暴力社会であった。軍事独裁政権はカトリック教会にも入り込み、教会関係者の中にも神父や神学生を含めて多くの犠牲者が出た。

ベルゴリオは管区長として軍事独裁政権下で虐げられている人たちに可能な限り救いの手を差し伸べようとする。その一方でそうした人たちを救おうと具体的に活動し、結果として軍事独裁政権に逮捕投獄され殺されてしまった彼の友人神父たちがいる。ベルゴリオは投獄されず、紆余曲折はあったが結局は出世し、アルゼンチンのカトリック教会のトップになり、ついに法王にまでなった。

この映画を見ていて私が懸命に考えたのが、ベルゴリオはなぜ軍事独裁政権に殺された神父たちの側に身を置くことがなかったのか、についてである。彼はけっして日和見主義者ではないはずだ。が、私にはこれについての納得できる答えを見いだせなかった。このことを明確に示す必要はない。そうするよりも、もう少し想像力を刺激するような映画のつくり方をしてほしかった。この映画では物語を破綻なく描くことに映像と音を費やしただけだ。結局は宗教団体が信者のために制作する「聖人物語」「開祖物語」と大差ないように感じてしまった。

『哭声(コクソン)』

韓国映画『哭声(コクソン)』は韓国の鄙びた山村を舞台とし、主人公はその山村の駐在所の巡査である。その山村で村人が自分の家族を惨殺するという事件が立て続けに起こる。犯人はいずれも目が濁り、体中に発疹ができるという共通点がある。そこで原因探しがなされるが、難航する。そのうちに山奥の小屋に勝手に住み着いたよそ者が怪しいということになった。そのよそ者は日本人らしいということが分かっているだけで、正体が不明。主人公の巡査と仲間たちはその日本人を追い詰めていく。

ここまで衝撃的な映像の連続。國村隼演じる正体不明の日本人の怪しさは凄まじい。

ネタバレ防止のためにこれ以上筋書きを追わない。とにかく開始から映画に引き込まれ、夢中になって見入ってしまうが、ふと気付くと内容は支離滅裂なのである。犯人(これは惨殺された家族の一員なので、その家族の数だけ犯人がいる)がなぜ目が濁り体に発疹ができるのか、それがなぜ殺人の原因になるのか、なぜ家族を殺すのか、怪しい日本人がなぜその村にきたのか、その日本人は何者なのか、その日本人と殺人事件発生とにどのような関係があるのか、等々、無数の不明点の連続である。おまけに途中からは祈祷師が現れ、それが結構重要な扱われ方をするのも訳が分からない。筋が通っているのは主人公の巡査が、最初のうちはやる気なしの呑気な田舎のお巡りさんでしかなかったのだが、だんだん事件にのめり込んで行動が活発化し、最後はとんでもないことになるという点に関してのみ。

映像の迫力、映像のテンポ感、凄まじい音響効果、真に迫った俳優の演技、祈祷師が活躍する韓国伝統の呪術世界の激烈さ、美しい山村風景、等々、映画の鑑賞中に目にして耳にするものの存在感は圧倒的で、それらが支離滅裂を超越して束になって観客に解釈することを迫ってくる。

じつは私は未だ解釈しきれていない。折に触れては思い出しては解釈し直している。そのことが鑑賞後の充実をもたらし、映画鑑賞のたのしみを確認させる。

映像メディアの特質を利用し尽くしてこそ魅力ある映画に

『ローマ法王になる日まで』は偉人伝の映画化である。この映画の内容は文章においてもそのまま表現可能だ。

しかし『哭声(コクソン)』の内容を文章で表現すると魅力は激減するか、まったく内容が違ったものになるだろう。こちらは映像メディアを利用しないと成り立たない。

ある種の実験映画のように支離滅裂が主題になってしまったようなものは論外。表面的な物語理解のわかりやすさのためにだけ映像メディアの特質(実録映像・描写映像・実録音響・編集音響・同一時間軸上での映像と音響の併存・時間の編集可能、等)を利用するのではなく、映像メディアの特質そのものを表現の軸にすれば、物語的な支離滅裂を超えた映画独自の魅力を創造できる。このことを『哭声(コクソン)』は示してくれた。