作曲者・作品名
中村滋延 《交響曲第5番「聖なる旅立ち」》 →YouTube
NAKAMURA, Shigenobu Symphony No.5 The Sacred Departure
作曲年
2014年2月〜9月
初演
2014年12月1日、東京芸術劇場コンサートホール、「オーケストラプロジェクト2014」、大井剛史指揮、東京交響楽団
再演
2016年9月19日,アクロス福岡コンサートホール,九州交響楽団第352回定期演奏会,小泉和裕指揮,九州交響楽団
楽器編成
3フルート(1つはピッコロ持ち替え)、2オーボエ、1イングリッシュホルン、2クラリネット、1バスクラリネット、2ファゴット、1コントラファゴット、4ホルン、3トランペット、3トロンボーン、1チューバ、ティンパニ、打楽器(3奏者)、弦5部
演奏時間
15〜16分
作品名について
作品名《交響曲第5番「聖なる旅立ち」》は英文名ではThe Sacred Departure Symphony No.5と言います。
この作品はその着想をインドの叙事詩「ラーマヤナ」の一部分から得ていますが、標題音楽ではありません。ここでラーマヤナの全体のあらすじとこの作品の着想のもとになった箇所について紹介いたします。ラーマヤナとは古代北インドのコーサラ国の王子ラーマの生長譚です。(なお、私は2001年以降、つまり福岡に居を移して以来、「ラーマヤナ」から着想を得た作品を作り続けていいます。)
- 「ラーマは義母の奸計により皇太子の地位を剥奪され、国を追われます。森での隠棲中に妻シータが魔王ラーヴァナに攫われ、ラーヴァナが住むランカ島に幽閉されます。ラーマはランカ島に渡り、激闘の末にラーヴァナを打ち破り、シータを取り戻します。ラーヴァナを打ち破ったことでラーマは再び国に迎え入れられ、王位につきます」。
ラーマヤナを題材にした芸能ではこのハッピーエンドの部分で終わることが多いのです。ところが実際の物語にはその後に厳しい部分が続きます。今回の作品はこの厳しい部分から着想を得ています。その部分は次のような内容になります。
- 「シータを取り戻した時にラーマが直面したのは、シータの不貞を疑う味方の兵士たちの声でした。シータはその疑いを晴らすために兵士たちの前で火の中に飛び込んで見せます。すると、火の中から傷一つないシータが火の神によって抱えられて現れます。そのことで不貞の疑いは払拭されました。
しかし味方の兵士の疑いを払拭できても、王国に帰ってからは王国の民がシータの不貞を疑いはじめます。このままでは国を治めることできないと悟ったラーマは、シータを王国外にひそかに住まわせます。
しかしシータは王国の動揺を静めるためには自分は生きていてはならぬ決意し、そして大地の裂け目に身を投じます。」
以上の内容の最後、大地の裂け目に身を投じる、つまり自死することが、「聖なる旅立ち」に相当します。この曲では大地の裂け目に身を投じるに至るシータをめぐる状況やシータの心情からこの作品の着想を得ています。例えば、美しさゆえに魔王ラーヴァナに誘拐されるという不幸、魔王ラーヴァナの誘惑を敢然と拒絶する意志の強さ、幽閉中に募るラーマへの想い、ラーマとの再会の喜び、喜びが悲しみに一転するという理不尽、自身の潔白を証明するために火に飛び込むなどの思い切った行動、愛するラーマとの別れの悲しさ、他者のために我が身を捨てる高貴な精神、シータ自身の運命の苛烈さ、等々。これらが単独で、あるいは融合した状態で私に音楽的着想をもたらしたのです。最後の自死が単なる終わりではなく、再生を暗示しているというように私は考えており、それは曲の最終盤の曲調にも反映されています。
しかし着想を得ていったん作曲をはじめると、物語を音で描くという標題音楽的な発想はほとんどなくなり、絶対音楽として構成するということに関心が集中します。したがって、作品の音楽的表情を物語と関係づけて理解いただく必要はあまりありません。
楽曲について
作品は連続して演奏される6つの楽章からなります。
第1楽章 Allegro tempo guisto:ひじょうに限られた素材で作られています。音楽として展開するのではなく、動機が並置されているだけです。言わば作品全体の提示部です。限られた素材とは、(a)高音域の少数の音高による組み合わせによるffの旋律断片、(b)低音域のffの同音反復リズム、(c)「短い・長い」というリズムの組み合わせによる2度上行音型(ここでは短2度)、の3つです(譜例1)。これらはこの作品全体の基礎動機として他の楽章においても様々に変奏されて登場します。
この楽章はシータの苛烈な運命を象徴的に表現しています。
第2楽章 Moderato con sentimento:三部分形式。前楽章のファゴットの持続音の中からクラリネットによる旋律が登場します。その後に木管楽器によって基礎動機cによる音型反復を中心とする音楽が続きます(譜例2)。
その後の中間部(2E〜)では、高音楽器がトゥッティで基礎動機aを発展させた旋律を奏し、低音楽器が基礎動機bを奏します。その後に主部が再現されますが(2G〜)、かなり拡大されています。
この楽章は理不尽な運命に苦しむシータを表現しています。
第3楽章 Lento sostenuto:三部分形式。前楽章のヴァイオリンによるc音の持続から弦楽器による旋律が生まれてきます。本来的にはユニゾンの旋律ですが、分奏による音高のズレを伴っており、そのズレが四分音符単位の単純なリズムによる旋律(譜例3)に陰翳をつくります。フルートやオーボエなどの旋律(3A〜)は弦楽器のこの旋律線をヘテロフォニックに装飾したものです。中間部(3E〜)では高音弦による旋律が登場します。この旋律はヘテロフォニックな装飾を伴っているため一見複雑に見えますがas→gという単純な旋律線で成っています。その後に主部が再現されますが(3H)、かなり縮小されています。
この楽章はシータの祈りを表現しています
第4楽章 Allegro molto sostenuto:スケルツォ楽章に相当します。三部分形式。前の楽章の弦の持続音のクレシェンドを受けてテンポの速い行進曲風のリズムが低音弦楽器のffで始まります。それに合わせて高音弦楽器がスケルツォ主題を演奏します(譜例4)。中間部前半(4L〜)では弦楽器の開放弦による四分音符和音の刻みの上に、木管楽器とマリンバが基礎動機aを発展させた音型を奏します。中間部後半(4O〜)ではハ長調の音階による2拍子の弾むような旋律が高音弦楽器と高音木管楽器によって演奏されます。この旋律は繰り返しの度に音を下に重ねていきます(譜例5)。その後に主部が再現されますが(4S〜)、縮小されています。
この楽章は混乱した意識の中でのシータの追憶を表現しています。
第5楽章 Adagio espressivo:三部分形式。前の楽章のコントラバスの持続音を受けて低音弦によるコラールが始まります。その上に第一ヴァイオリンがゆったりと表情たっぷりに主題を奏でます(譜例6)。中間部(5A〜)はヴァイオリンの持続音の上に旋律断片が柔らかく木管楽器によって奏でられます。旋律断片は基礎動機cに基づいています。その後に主部が再現されます(5D〜)。第一ヴァイオリンによる旋律に木管楽器による鳥の囀りのような装飾的音型が絡みます。
この楽章では死を意識したシータの透明感あふれる決意を表現しています。
第6楽章 Allegro impetuoso – Un poco più mosso – Allegro molto – Presto:自由な変奏曲形式。前の楽章の低音弦の持続音をティンパニのトレモロが引き継ぎ、激しいクレシェンドの到達点から主題がトゥッティで始まります(譜例7)。この部分は第1楽章の再現でもあります。これ以降、その主題に含まれている3種類の基礎動機を組み合わせた楽句が展開・変奏されていきます。そして展開・変奏の進につれて速度を速めていき、盛り上がって終わります。
この楽章では大地の裂け目に身を投げたシータが、最後に神によって救出・再生される様子を表現しています。