森達也監督の『Fake』を見た(6月15日、大阪、第七藝術劇場)。
ゴーストライター騒動で社会を賑わした佐村河内守を取材したドキュメンタリー映画である。森達也は佐村河内の住居を訪れ、彼や彼の奥さんに直接インタビューし、出演依頼に訪れたテレビ局と佐村河内との交渉場面にも同席し、ある時は佐村河内と一緒にベランダで煙草を吸う。佐村河内との間に太い信頼の絆が築かれていることをさりげなく示す。ドキュメンタリー映画としてのそうした手法はいかにも手練れているという感じだ。
一連の騒動によって「佐村河内=悪人・嘘つき、作曲技術なし」というイメージと、それに対する「ゴーストライターであった新垣隆=善人・正直者、すぐれた作曲家」というイメージとが定着した。こうしたイメージは人々が信じ込まされた言説によって簡単に形成される。この騒動が起こる寸前までは「佐村河内=耳の聞こえぬ天才作曲家、現代のベートーヴェン」というイメージが定着していたのだ。この映画は、佐村河内のマイナスイメージがメディアによってつくられたものだということを、今やバラエティタレントとしても活躍する新垣隆との比較によって、訴えているかのように思えるが、それほど単純でもない。映画の最後に森が「(ここまでの取材で)私に嘘をついていることはありませんか」と佐村河内に訊く。佐村河内が「ウーン」と言って考え込み口ごもったところで映画は唐突に終わる。まるでこの映画の内容も単純に信じてはならないということを警告しているかのようで、一見、作品の奥行きを感じさせる。
「誰にも言わないでください衝撃のラスト12分間」というこの映画の宣伝文句にあったラスト12分間は、森達也の励ましによって作曲への意欲を取り戻した佐村河内がシンセサイザーに向かって作曲をし、完成させ、奥さんと森に聴かせるシーンだ。森はここで佐村河内がきちんと作曲できる能力を持っているということを示そうとしたのだろうか。作曲を生業としている私から見ると「佐村河内がきちんと作曲できる能力を持っている」ことについては否定的にならざるを得ない。そこで示された音楽のごときは、高機能シンセサイザーを用いれば簡単に組み立てることができる。
映画の途中で欧米メディアの取材を受けるシーンが挿入される。これまで佐村河内がどのように作曲してきたか、特に新垣隆とどのように共作してきたかについてその欧米メディアの記者は質問する。文と図だけで書かれた作曲アイデアのペーパー(新垣との打ち合わせに使ったと思われるペーパー)が佐村河内から記者に示される。新垣に渡した音源は手元にはないということで示されなかった。記者は佐村河内に「楽譜は書けないのか」と質問する。「書けない」と佐村河内。「なぜ楽譜を書く技術を身につけなかったのか」と記者は質問し、「けっして難しいことではない」と付け加える。この欧米メディアの記者の質問はクラシックの作曲現場を少しでも知る者からすれば当然のものだ。そもそも「現代のベートーヴェン」などとの持ち上げ方は、クラシックの作曲現場を少しでも知っていればなかったはずのものだ。(この話題そのものについては、以前に書いた文章「現代のベートーヴェン=佐村河内守について感じてきたこと」及び「作曲という仕事(西日本新聞4月5日「風車」欄掲載)」を参照していただきたい。)
森達也は、新垣隆にも、佐村河内告発の記事を最初に書いた神山典士にも取材を申し込んだが、拒否されたと映画中に明らかにする。神山とは彼の著書に関わる授賞式に森がプレゼンテーターを勤めることになったが、神山は当の受賞者であるのに出席しなかった。新垣とは彼の新刊書発売のサイン会(福岡のイムズホールのように見えたが)にまで出かけていって交渉するが、結局は取材は断られたとのこと。これが何を意味するか、森達也は観客に判断を委ねる。
取材が断られたから仕方がない面もあるが、私はもう少し新垣を登場させてほしかった。ゴーストライター騒動で、私がもっとも理解できなかったのが新垣隆という人間だった。雑誌記事やタレント本などのゴーストライターとは訳が違う。クラシックの歴史は作曲家の名前を中心にして語られる世界だ。膨大な仕事量(オーケストラの音楽のためには五線40段以上の楽譜を最低200ページは書かねばならない)を名前を隠すことを前提にこなすことなどできるとはとても思えない。それもわずかな期間であればともかく、18年という長きにわたって。それが現在ではバラエティ番組のタレントである。テレビでのその姿は正視に耐えない。いじられ方を見ていても、結局、人としての矜持を根本的に持ち合わせていない人なんだと思う。
最後にこのドキュメンタリー映画そのものについての感想。おもしろかった。メディア・リテラシーに関することで深刻な問題提起がなされているようにも見える。でも、このおもしろさは、結局のところ新垣隆や佐村河内の記者会見と同種のもので、新垣隆がいじられているバラエティ番組のおもしろさとも、結果としては大差がない。メディア・リテラシーに関する問題提起としては森達也側にクラシックに関する教養や感性が欠如している。