「音楽季報」 中村滋延 
西日本新聞2016年1月23日朝刊文化欄

 全国共同制作プロジェクトとして昨年の5月以降、国内10カ所で上演されてきたモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚〜庭師は見た!〜」の千秋楽にあたる熊本公演を鑑賞した(11月14日、熊本県立劇場演劇ホール)。井上道義指揮の九州交響楽団による演奏。筆者は海外を含め《フィガロの結婚》を10回近く鑑賞しているが、これほど夢中になって楽しんだのは初めてである。それは何よりも野田秀樹の遊び心あふれた新演出と、その野田を起用した井上道義の新しいオペラづくりにかける意気込みとがもたらしたものだ。
 舞台は原作では18世紀半ばのスペインの貴族の館である。この舞台設定は日本人にとって現実感に乏しいものであろう。貴族の位置づけや、伯爵とその家臣であるフィガロとの関係、小姓ケルビーノをはじめとする使用人たちの仕事の内容、初夜権の存在など、日本で上演するには何に範をとってよいのかよくわからないものばかりだ。それゆえ野田は大胆にも幕末の長崎に舞台を移し、伯爵(ナターレ・デ・カロリス)を西洋からやってきた大商人に、フィガロ(大山大輔)やスザンナ(小林沙羅)などをその商館に雇われた日本人に変えた。伯爵や伯爵夫人(テオドラ・ゲオルギュー)はイタリア語のままに、フィガロやスザンナや使用人たちは日本語で歌い語る。さらに原作ではさほど重要な役ではない庭師アントニオ(廣川三憲)を狂言回しとして重用する。荒唐無稽な出来事が、この日本人庭師の目と口を通して物語られることで、真実味をもって迫ってくる。
 ステージには部屋を象徴する3つの箱が置かれている。長い竹の棒の組み合わせが幕を表し、時にそれは庭木や建物をも象徴する。きわめてシンプルな舞台美術(堀尾幸男)であるが、このシンプルさが歌手たちや演劇アンサンブルの動きを際立たせた。
 今回の野田演出をきわもの扱いする向きもあるだろうが、筆者はまったくそう思わない。クラシック音楽の上演では楽譜やその解釈規範に縛られるあまり聴衆の存在を忘れているような事例がままある。作曲者本来の意図を現代の聴衆に明確に伝えようとすると、むしろ創造行為としての演奏表現こそが求められる。このことを野田は卓越した事例によって示してくれた。
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 演奏表現が創造行為であることを示してくれた他の事例として「イグナツ・リシェツキ、ピアノリサイタル」(11月9日、あいれふホール)を挙げたい。
 ポーランド出身のこのピアニストが冒頭に弾いたショパンのロ短調のマズルカ(作品33の4)は筆者が聴き慣れてきたものとはまったく異質で、その自由奔放さにはじめのうちはとまどいをおぼえたが、やがて音が紡がれる一瞬一瞬に耳は心地よく集中していった。その創造的解釈はショパンの伝統を知り尽くしているという自負がもたらしたものだろう。
 最後に弾いたリストの《ソナタ風幻想曲、ダンテを読んで》では演奏者自身の名前が編曲者としてクレジットされていた。この編曲は物語性を際立たせるためになされたもので、具体的には21世紀のスタインウェイのピアノの響きと機構をリストが知っていたら書いていたに違いない超絶技巧風パッセージが付け加えられている。リシェツキの演奏は、現代の聴衆に向けて原曲の劇的な表現をより効果的に変容拡大することに成功していた。
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 演奏だけでなく、演奏会の構成も創造行為であることを感じさせたのが「音の杜の愉快な仲間たち、1stコンサート」である(11月13日、北九州芸術劇場小劇場)。北九州を中心に活躍する声楽家や器楽奏者たち7名によって、ヘンデルやバッハの古典からサティやガーシュイン、ピアソラなどの二十世紀の音楽、さらには今世紀に入って作曲された音楽までもが、まるで物語に従って選曲配置されたかのような統一性を感じさせて上演された。中心はピアソラであり、ピアソラの世界に合致するように他の曲が選曲され、バッハやヘンデルもそのように編曲されていた。
 ともするとグループによるコンサートは個々の奏者が自身の世界を開陳することに終始し、相乗効果を上げるよりも相殺されてしまうことが多い。このコンサートはそうならないように工夫され、聴衆をたのしませた。演奏自体の質も高かった。次回は物語を具体的に導入してみてもよいのではないか。