10月9日
ゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場管弦楽団のストラヴィンスキー初期のバレエ音楽名作3作品によるコンサート(アクロス福岡シンフォニーホール)。大感激。演奏そのものより作品そのものに。3つの中では《ペトルーシュカ》《春の祭典》と後になるほどいい。なによりもCDやDVDなどを家庭で鑑賞するのでは絶対味わえないオーケストラのライヴの醍醐味を堪能した。一音も聴き漏らすまいと意識せずとも、私はそのように聴いてしまった。
ストラヴィンスキーでいいのは3つの初期バレエ曲の後の《結婚》《きつね》くらいまで。新古典主義時代の音楽には初期の輝きはまったくないし、晩年の12音技法による作品などは彼は惚けてしまったのではと思わせるような音楽。《ペトルーシュカ》《春の祭典》作曲時のストラヴィンスキーは神が宿ったと思わせる(彼自身もそうしたことを言っていたようだ)。
ゲルギエフの指揮は細部をあげつらえばいろいろあると思うが、十分にたのしめた。《春の祭典》で「春の兆しと若い乙女の踊り」(序奏の次)に入った瞬間、その異常にはやいテンポの演奏に驚いた。アンサンブルの乱れを予想したら、案の定。乱れていない演奏者もせわしなく演奏してフレーズのよさが半減。しかしライブ感のよさがすべてを覆い隠した。
20世紀の音楽はやはり時代が近いだけに、現実感が濃厚で、「芸術」に触れたという実感が強烈。モーツアルトやベートーヴェンは「古典」(否定的な意味での)なんだとあらためて思った。
いやー、久しぶりでオーケストラの媒体としての素晴らしさを実感した。12月1日東京芸術劇場で初演される《聖なる旅立ち—交響曲第5番》を作曲しえたばかりだが、もう、次の管弦楽作品を作曲したくなった。

10月14日
「山田うんソロダンスライヴ」(10月14日、アクロス福岡円形ホール)を見た。パフォーミングアーツを泥縄式で勉強しなければならない身として、山田うんの名前を最近よく目にするのでとりあえず行ってみた。ひじょうに面白かった。即興ということだが、それを可能にしているのは彼女のダンスの高い基礎能力。身体の動きがシャープ。ファドから艶歌まで多様な音楽をバックに踊る。その感性がいい。アジア人の特有の身体性(つまり白人や黒人に較べて手足が短い)を逆手にとった表現の思い切りのよさがいい。そこに土着性を感じさせて、本人は意識していないだろうけれど舞踏との近親性もある。なによりも表現へのひたむきさが気持ちいい。次に彼女のカンパニーによる公演があれば絶対に行きたい。

10月16日
昨日(10月16日)、第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014を見に行った。3度目。これまでゆっくり鑑賞できなかった映像作品をじっくり見る目的で。
美術展における映像作品の鑑賞にはいつも困難を覚える。美術展では時間芸術である映像作品を始めから終わりまで通して見ることが物理的に難しいからである。したがってインスタレーションとして作成されたもの以外、映像作品を美術展では提示すべきではないと思っていた。
だが、今回、美術展という文脈で提示されることでそのよさがあらためて認識できる映像作品が、たしかにあることを実感した。
デチェン・ロデル(ブータン)《Original Photocopy of the Happines》《Heart in the Mandala》では至近距離で撮られた人の顔が表現するわずかな感情のゆれを、見る者に深く感じさせる。抑えた演出であり演技であるが、いつまでの感情のゆれが心に残る。
ヤン・ヨンリァン(中国)《The Day of Perpetual Night》はまさにデジタル山水画。夕刻の都市風景の現実と幻想の境目の世界が実に精緻な造形で描かれている。よく見ると大勢の人と車が密集して動いている。このことに気付くと感動が押し寄せてくる。
ユェン・グァンミン(台湾)《Before Memory》は巨大な4面のスクリーンが空間を覆う。驚異のカメラワークで撮られた日常生活と広大な自然空間の映像がスピード感いっぱいに展開される。たしかに見る人の視覚と感情を有無を言わさずゆさぶる
ブー・ホァ(中国)《The Last Phases of the Future》他は短編3部作。ノスタルジックでキュートなフラッシュアニメ。主人公の少女が開発のすすむ都市空間の中でさまざまな事物と幻想的に絡んでいく。映像構成の力と映像転換のテンポ感のよさに脱帽。
キリ・ダレナ(フィリピン)《Tungkung Langit》は3面のスクリーンで投影される作品。台風による洪水ですべてを失った子どもたちが避難地で生きる姿を描く。3面のスクリーンの必然性を感じさせる美しい映像が静かに展開される。それだけに哀しい。
他にも傑作がある。もちろん映像作品以外にも。

10月17日
今日(10月17日)ベッリーニのオペラ《カプレーティとモンテッキ》を聴く(視る)。西日本オペラ協会「コンセール・ピエール」公演による。奥村哲也指揮の九州交響楽団。
いつものことながら、さまざまな困難にめげず本格的なオペラ公演をやり遂げていることに脱帽。とにかくたのしめるところまで完成させていることに素直に拍手を送りたい。
カプレーティとモンテッキはロメオとジュリエットの物語である。ロメオがソプラノであるのは違和感がないわけではないが、従来からそのように演じられてきたのだから仕方がない。
第2幕でロメオを演じた坂井里衣は好演。なかなか素質のゆたかな女性歌手で、これからの活躍が期待される。

10月21日
九響の336回定期(アクロス福岡)を聴く。指揮はカザフスタン出身のアラン・ブリバエフ。
演奏の印象を一言で言うと、余計なメリハリを効かせ過ぎ。その分、肝心なところのメリハリが効いていない。例えばラフマニノフの「交響的舞曲」第1楽章における聴かせどころとなる主題の提示部分がまったく聴く者を惹き付けない。一年前の定期でも彼はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」を振ったが、一番有名な「騎士の踊り」のテーマもまったく聴く者を惹き付けない。理由のひとつはテンポが速すぎる。絶対的なテンポ感というより、そのように感じさせてしまうテンポ感。些末な部分のメリハリを強調するあまり、根幹部分のメリハリがなく、主題提示が中途半端で不鮮明になってしまっている。
アンサンブルも必ずしも的確に制御できていなかったようだ。曲の終わりの合わせも冷や冷やもの。
ブリバエフは九響がどうしても呼ばなければならない指揮者だろうか。

10月28日
今日10月28日スロヴェニア・マリボール国立歌劇場によるヴェルディ「アイーダ」(アクロス福岡シンフォニーホール)を聴く。4ヶ月前にも同じ歌劇場のビゼー「カルメン」を聴いたばかり(7月はじめのFacebookにもこの時の感想書いている)。
比較すると今日の方が断然いい。歌手陣も、オケの演奏も、舞台美術も、そしてバレエも。この歌劇場、なかなかレベル高し。聴き応え十分。満足。イタリアやドイツなどの名歌劇場の熱の入っていない公演よりよほどいい。
ただ,ラダメスの体型は問題。二人の女性から愛される「色男」ぶりが皆無。声を重視するとどうしてもこうなる。オペラのむつかしいところだ。
今日の席は2階上手側バルコニー席1列目後方。舞台上手が全然見えない。それでも見ようとして思わず手すりの方に身を乗り出したら、隣席のお姉さん(おばさん)から視界を遮るなと身体を叩かれて注意された(身体を叩かれたことで一瞬ムッときたがにっこり謝る)。皆さん、アクロスでのオペラ公演の際はバルコニー席は禁物ですよ。後方座席でもよいから中央の席が必須。昔住んでいたドイツのカールスルーエの国立劇場(州立劇場)はどんな席からでも舞台が見えた。それとはえらい違い。
なお、演奏中に2階席後方で紙袋をガサガサと鳴らす音がたびたび聞こえたきた。非常識な行為に集中妨げられ不愉快きわまりない。それこそ周りの客席の人は注意すべきだ。

10月29日
昨日に九響の2015年度プログラムに関する記者発表があったそうだ。その内容を手に入れることができた。定期公演が年9回になり、三善晃やシュニトケの作品をプログラムに入れるなど、ようやく時代を反映したプログラムになってきた。スクリャービンやシェーンベルクも定期公演に入るなど、能動的聴衆をも惹きつける内容になりつつある。
ただし、コンサートごとのプログラミングには相変わらず疑問も。特別の意図がなければ、ひとつの定期演奏会のプログラミングは多様性に富んでいた方がよい。「現代音楽なんか嫌いだったけれど、チャイコフスキー(あるいはモーツァルト)を聴くために行った時にたまたまプログラムに入っていた現代音楽が意外におもしろかった。あらたな発見をした」なんてことが定期公演にあってよい。メインが三善晃とシュニトケによる定期では、その良さを知らしめる可能性をみすみす減らしているのではないか。
「ペリアスとメリザンド」がシリーズ化されているが、なぜなのか見えてこない。
協奏曲で始まる演奏会があいかわらずあるのには疑問を感じる。最初に短い曲を演奏して会場の雰囲気を整え聴衆に慣れてもらい、そこで独奏者を迎えるという方が明らかによい。