2014年3月15日夜に九州大学サテライト・ルネットにて「ひびき・ま・かたち〜音楽場の創造〜」の一環としてシンポジウム「音楽場としての九州」が行われた。20名ほどの参加者を得て、予想以上に盛り上がった。
もっとも盛り上がったのが、最後にフロアから出た質問「現代音楽は一般の人にほとんど聴かれない。いったいあなた方は誰のためにそれを作っているのか」について。
じつはこの種の質問は私が現代音楽の作曲に関わるようになった時から、つまり45年ほど前から、現代音楽をめぐるシンポジウムの際に必ずと言ってよいほどフロアから出る。おそらくは現代音楽と言われるものが登場したときから出され続けてきた質問である。この質問は、無調性の難解な現代音楽を聴く人は圧倒的に少数であるに違いなく、その少数の聴衆のために作曲するなんて理解できない、という多くの人々に共通する思いから発せられている。
たしかに、無調性の難解な現代音楽を聴く人は少ない。ところがそれにもかかわらず100年近く、この種の音楽はずっと作られ続けているのである。作曲コンペの審査員などをすると、この種の音楽が若い作曲家の心を捉えて放さないことを実感する。こうした事実があることを知っておいてほしいと思う。
シンポジウムでは私はコーディネータをしていたので、発言を控えており、最後に発言をした。「私はすべての人のために現代音楽を作曲している」と発言した。なぜならば、すべての人に私の音楽を理解できる「可能性」が潜んでいるからである。
自分のことだと誤解を受けるので、第三者の作った現代音楽を例にとって説明した。私は現在、九州初の現代音楽作曲家である今史朗(コン・シロウ、1904-1977)を研究している。全国的にはまったく無名であり、地元福岡でもほとんど忘れられていた今史朗の音楽をあるキッカケで知ることになり、その音楽の素晴らしさに驚嘆したからである。この素晴らしさをこのまま埋もれさせては文化的な損失だと思い、この素晴らしさを世に知らせるために研究をはじめたのだ。この研究は、「すべての人に今史朗の音楽を理解できる『可能性』が潜んでいる」という前提がなければ絶対にはじめることはできない。理解できる人は少数であるかもしれないが、理解する人は必ずいる。なぜならば、その音楽は今史朗が生きた時代・社会を濃厚に反映しているからである。人間の思考・感性は共同体(ただし様々なレベルの共同体の錯綜した中に一人の人間は在る)とは無関係にあるわけではなく、それら共同体の規範に影響されている限りは、他者が理解できないことは絶対ないからである。
ただ、人間の精神・肉体は物理的な自然と無関係に在るわけではないので、倍音構造と密接に関連している全音階的な音楽とそうでない半音階的な音楽ではあきらかに前者が、脈拍や歩行と密接に関連している拍節的な音楽とそうではない非拍節的な音楽ではあきらかに前者が、それぞれ理解しやすいし、それを好む人の率は高い。無調で非拍節的な現代音楽が聴くのが難しいとされるのは当たり前で、聴衆が少ないのも当たり前。それだけのことでしかない。
なお、ついでに言っておくと、芸術を意味する西洋の諸言語では「techné(テクネー」「ars(アルス)」「Kunst(クンスト)」などのようにいずれも「人工の」が語源となっていて、芸術創作は自然と対峙するところから始まると考えられている。芸術家(この場合は作曲家)が自然との関係が強い全音階的・拍節的音楽を乗り越えて新たな美を目指すことは当然なことであり、聴く人が少ないことが分かっていてもそれに邁進してしまうのが、芸術家としての生き方を選択した者の「業(ゴウ)」である。そしてその業は、突発的に孤立して出現するものではなく、共同体の規範に影響され縛られたところから派生するものである。