西日本新聞2013年7月9日朝刊文化欄掲載

九州交響楽団は創立60周年を迎えた。それを機に小泉和裕が音楽監督に就任。音楽主幹も交代し、九響は新体制となってさらなる発展に向けて歩み出した。その発展の方向性を見定めるため、今年度になってからのすべての九響主催公演を聴いた。
第323回定期は「小泉和裕音楽監督就任披露演奏会〜花を添える神尾真由子のチャイコフスキー〜」(4月25日、アクロス福岡)。会場は満員。小泉に対する聴衆の期待の大きさが分かる。ベルリオーズ《幻想交響曲》はその期待を裏切らないすばらしい出来。一言でいえばメリハリが効いており、この曲の特徴である固定楽想の出現を巧みに感じさせる演奏であった。つまりは小泉の構造把握が非常に的確なのである。小泉九響の滑り出しは上々、今後への期待は大きい。
第324回定期は「團伊玖磨没後13回忌記念公演」(5月17日、アクロス福岡)。指揮は現田茂夫。日本人の作品で、それも一人の作曲家の作品だけでひとつの定期を組むというのは画期的な試み。そのこと自体に敬意を表したい。
「作曲・演奏・聴取」という音楽成立の円環を考えると、「演奏・聴取」ばかりの日本のクラシック界は異常なのだということに気づいてほしい。「作曲」は現代音楽という特別枠に押し込められ、クラシックから不当に除外されている。クラシックの制度を無視したある種の前衛音楽は定期公演などにはふさわしくないかも知れないが、その点では團の管弦楽曲などはもっと頻繁に演奏されてもよい。《交響曲第1番イ調》などは親しみやすく、かつ正統的であり、レパートリーになり得る。
客席には空席がチラホラ。ただしそのことで関係者は自らの公演にマイナスの評価を下してほしくはない。音楽文化創成のためにはきわめて大きな貢献なのだから。
天神でクラシックVo.9「南欧の輝き」(5月27日、福銀本店大ホール)は飯森範親の指揮。ラロ《スペイン交響曲》のヴァイオリン・ソロを弾いた渡辺玲子が素晴らしかった。表情の起伏に富み、聴き手のこころをグッとつかんでその音楽世界に有無をいわせず引き込んでしまう入魂の演奏。なんども聴いたはずの曲なのだが、その音楽としての素晴らしさにはじめて気付いた。
第54回北九州定期(6月16日、響ホール)では同じく飯森の指揮。ロッシーニやプッチーニのアリアを歌ったソプラノの高橋恵子の過剰を慎んだ表現とその声に好感を持った。
第325回定期は「ワーグナー生誕200年記念~世界の大野が贈るワーグナーの傑作群~」(6月27日、アクロス福岡)。日本では聴く機会が稀なワーグナー後期の楽劇『神々の黄昏』『ワルキューレ』を、一部抜粋の演奏会形式とは言え、ライブで聴くことのできたのは大変なよろこびであった。並河寿美の力みなぎるソプラノと松位浩の厚みのあるバスは聴き応えがあった。大野の指揮は音楽の持続性を重要視したもので、ワーグナーの特質を的確に表現していた。
新体制による気分一新のゆえであろうか、九響の調子はよい。ただし上演曲目や演奏会構成を見ている限り、九響及び小泉の今後の方向性はまだはっきりしない。望むらくは日本の数あるオーケストラのワンノブゼムではなく、オンリーワンであってほしい。そのためには「作曲・演奏・聴取」という音楽成立の円環を見据えた方向性があってもよいのではないか。
さて、九響ばかりを取り上げたのは、それがいわば公式文化であるからだ。しかし文化全体の豊かさは公式文化だけで成立するのではない。一方で小さなコミュニティで真剣に熱く盛り上がる非公式文化があってこそ全体の豊かさが担保される。「山田岳ギターリサイタル〜21世紀のギター音楽〜」(5月6日、リノベーションミュージアム冷泉荘)はまさにそうした音楽会。聴衆はわずか25人ほど。しかし山田岳のすぐれた演奏技術に裏づけられたユニークなパフォーマンスは聴き手を深く魅了した。筆者が興味を持ったのは若い世代の作曲家達の創造的試みへの積極的な関心である。九響はこうした若い作曲家世代の関心を囲い込むようなことを思い切ってやってみてもよいのではないか。