5月17日(アクロス福岡シンフォニーホール)での九響第324回定期公演は、團伊玖磨没後13回忌記念演奏会。定期公演でこの演奏会を企画したことに拍手。現代日本の作品をことあるごとに取り上げてほしい。現代日本音楽を日本の交響楽団が演奏するのは、「作曲−演奏−聴取」という音楽成立の円環を考えれば当然のこと。
私は非常に濃密に集中して、かつ、いろいろなことを考えながら、聴いた。それは受け身で聴くのと違った体験。まさに創造的聴取。あるいは思考的聴取。娯楽を超えた芸術鑑賞の本来のあり方ではないか、と思う。
演奏曲目は、第1交響曲(1950)、合唱組曲「筑後川」(1968-74)、第6交響曲「HIROSHIMA」(1985)。大作ばかり。量的には聴き応えたっぷり。指揮は現田茂夫。
第1交響曲は團の25歳の作品。技術的に非常によく書けている。オーケストレーションも着実。楽想展開も淀みない。しかし、中心となるモチーフに魅力なく、音楽の進行が予定調和的すぎる。
九響は好演(だったと思う、他に演奏比較できないので厳密な論評困難)。ただし、冒頭のミドファ#ー、ミドラーのモチーフは、完璧にばっちり揃えてほしかったなぁー。
「筑後川」は、私はピアノ伴奏の方が好きですね。管弦楽版は「感動の押し売り」みたいなとこがあり、ちょっと耐えられない。
第6交響曲「HIROSHIMA」は演奏時間が長すぎる。篠笛(赤尾三千子)が入っていたりして、部分的には面白いところもあったけど、こんな長くする必要を感じなかった。佐藤しのぶは意外と声量がなく、また曲の中のソプラノ独唱の位置づけも中途半端で、感動とは遠かった。
團伊玖磨は、正直言って私が45年も前に作曲の勉強をはじめてから今日までほとんど関心の埒外であった。理由は、彼が前衛とは距離を置いていて、現代音楽の作曲家の興味をかき立てる存在ではまるでなかったことが大きい。別の世界の住人のように思っていた。
今回、團伊玖磨の作品を3つまとめて聴いて、作曲家として関心をかき立てられたかと言えば、はっきりと「NO」だ。彼の作品には時代と格闘した形跡がない。
時代と格闘するとは、人間としてその時代の社会の諸問題についてどう考え行動するか、作曲家としてその時代の音楽創作上の思潮に対してどう考え作曲するか、ということである。團の作品にはその格闘の形跡を見つけることができない。
広義の調性を用いたその作風は、穏健で、ブラームス的な後期ロマン派的音感覚に留まっている。あらたな表現手法への挑戦よりも、表現内容に集中していたということだろうが、手法と内容がそんなに安易に分離できるものではない。
やはり、愚にもつかない「パイプのけむり」なんて随筆集をのんきに書いていたことと、音楽作品との間にそんなに距離がないのであろうか。