東日本大震災から1年経ちました。今,がれき受け入れのことが報道されるくらいで,一般的には震災に関する報道を見聞きすることはぐんと減りました。しかし,復興がなされたわけではありません。今なお,復興の目処がたたない部分もあり,多くの方々が苦しんでおられます。
復興が遅れているのは,今回の被害が自然災害によるものだけではなかったという点にあります。いわゆる原発事故が引き起こされたからです。虚心坦懐に原発事故に関する報道に接すると,本当に大変なことが起こったと言わざるを得ません。今後何十年もその場所で人間が生活することができない,その場所から多少離れていても子供達が外で遊ぶことが出来ない,農作水産物を広範囲に汚染してそれらを口に入れることができない,など。原発は,一度事故を起こすと生命体そのものの存続を危うくしてしまうのです。この事実を直視しなくてはならないと思います。
しかし,時間が経ち,また我々がいる九州福岡のように地理的に離れていると,東日本大震災とそれに伴う原発事故は意識から遠のきつつあります。これはきわめてまずいことです。大震災そのものは自然災害で,それが起こること自体は防ぎようがありません(被害は軽減することはできますが)。しかし原発事故は人災です。これは起こしてはなりません。
起こさないためには,原発は一度事故を起こすと生命体そのものの存続を危うくしてしまう,ということを我々がつねにしっかりと意識することです。ところが日常に追われていると,東日本大震災や原発事故の記憶は薄れるばかりです。ここは想像力をたくましくして,何が起こったのか,これからどうなるのかをしっかりと考え,被害を受けられた方の悲しみに思いをいたす必要があります。(悲しみに思いをいたすためには被害を直に見聞きすることが一番ですが,それができなくてもせめてきちんとした報道・記録を追いかけるべきです。)
ところが現実にはあれだけの事故を起こしたにも拘わらず,原発再稼働に向けての動きは活発です。特に,経済界からの要請が非常に強い。経済効率,特に海外との競争,を考えると,原発なしでは日本はやっていけないという声が経済界では圧倒的です。そうかも知れません。しかし,経済優先の行き先,つまり何を目的にして,具体的にどのような国民生活の「幸せ感」が意図されて経済優先が唱えられているか,どうもはっきりしません。「豊かになるとはどういうことなのか」が明確に示されることは最近ほとんどないように思います。たしかに1960年代に当時の池田総理大臣が「所得倍増計画」を立てた時代は,所得が増えると「幸せ感」が増す実感があったように思います。今はそういう時代でないことは言うまでもありません。今は,ただただお題目として「経済発展」が唱えられるばかりです。
地球上に70億の人間が住み,開発途上国の生活水準が向上,中国やインドの多くの人口を抱える国が経済発展を遂げると,それに反比例してこれまでの先進国の経済発展が押さえられることは当然です。おまけに日本の場合,出生率も低下の一途です。これは国内生産と消費の縮小を意味します。近代以来常に当たり前であった経済の「右肩上がり」は日本ではもはや望むべくもありません。はじめて成長を望めない時代になったのです。
この状況を冷徹に見つめて,危険と背中合わせでも経済的に豊かな生活を求めるのか,経済的な豊かさだけに依存しない「幸せ感」を求めて安全を最優先するのか,をひとりひとりが考える必要があると思います。
今はそれが何かをうまく説明できませんが,私自身は,経済的な豊かさだけに依存しない「幸せ感」というものを求めていきたいとつよく思っています。