『平成21年度文化庁メディア芸術祭』を見た(2月11日,国立新美術館2階)。
 休日だったせいか,朝10時の開館とほぼ同時に訪れたが,すでに満員の入場者。熱気に溢れていた。おそらく,ゲームやアニメーション,漫画までを「メディア芸術」に取り込んで展示しているせいだろう。会場の雰囲気はアート展というより,まるでゲーム見本市のよう。芸術をゆっくりと鑑賞するという雰囲気ではない。インタラクティブ作品では鑑賞というよりも新製品の性能をチェックするために買物客が群がっている感じ。同時にインタラクティブ・システムをめぐって客同士の話し声が絶えない。そもそも作品の多くが音を伴っており,それが相互に邪魔し合っている。
 そうした中では,関心はやはりテクノロジーに傾き勝ち。作品自体を味わうことよりも,システムを技術的に理解し,作品コンセプトを表面的に理解することがすべてになる。しかし,まあ,それはそれで面白い。
 私が興味を抱いた作品は,和田永《Braun Tube Jazz Band》,川瀬浩介《ベアリング・グロッケンII》,Nika OBLAK/Primoz NOVAK《Box 2》,ナカムラマギコ/中村将良/川村真司/Hal KIRKLAND《日々の音色》,大川原亮《アニマルダンス》。いずれも実物による展示。他にも興味を抱きかけた作品もあったが,展示記録映像や上演記録映像による展示,もしくはコンピュータモニタによる展示では,作品そのものに向かい合った気がしない。
 《Braun Tube Jazz Band》はブラウン管テレビを楽器に加工した作品。演奏者はモニター表面を直接手で触れて奏する。音声信号を映像信号として出力し,それをさらに音声信号として入力して音を出す。ブラウン管テレビを音階の数だけ並べたそのスケール感がユニーク。身体化されたテクノロジー。
 《ベアリング・グロッケンII》はデジタル臭さを消し去った作品。パチンコ玉がコンピュータに制御されて階段状になったグロッケン(鉄琴)の上に落ちて音楽を奏でる。観客がライトの光量を手で覆って変えることで,パチンコ玉の落ち方を制御し,音楽の鳴り方を変える。デジタル臭さを消している点が,却ってデジタルの可能性を感じさせる。
 《Box 2》はテレビモニタに映る人間の運動が,そのモニタの外箱に影響を与える。人間の運動に連動して外箱がふくらんだりするのである。モニタの二次元表現と外箱の三次元表現,モニタの仮想世界と外箱の現実世界。これら対立する2つのものの境界があやふやになることで「認識」そのものを問いかける。
 《日々の音色》は実写の多画面による映像アート。個々は日常的な映像。それらの関わり合いが視ているものを飽きさせない。また,時々,多画面の集合がひとつの映像として解釈されてしまうことが起こる。その不思議。なお,この作品のタイトルは秀逸。
 《アニマルダンス》にはいくつかのアートアニメーションの影響を指摘することが出来る。しかしそれにもかかわらず,作者固有の表現として迫力に富む。原初的なテクスチュアと原初性を感じさせる動きとがその迫力を促進。これもデジタル臭さを消し去った作品。
 興味を抱いた作品は,実物が展示された作品,身体との関わりを意識させる作品,デジタル臭さを消した作品,日常に想を求めた作品,原初性が滲み出た作品。孫悟空が遠くの空を飛び回っても,結局お釈迦様の手の中から抜けられなかったのと同じか?