earth songは下関在住のheirakuG(平楽寺昌史)が主催するコンピュータ音楽パフォーマンスコンサートのシリーズである。今回,2009年7月20日(月・祝日)に下関南部町郵便局内ポストギャラリーで行われたearth songは,これまでのものとは異なり,現代音楽,視覚芸術,コンテンポラリーダンス,メディアアートの分野において国内外で活躍しているアーティストを招聘した大がかりなものであった。なお,私は今回が初参加で,これまでのearth songについてはまったく知らず,「これまでのものとは異なり……,大がかりなもの」という発言は主催者の言葉をそのまま信じたものである。

下関南部町郵便局は現役の郵便局の中では日本最古のものだそうで,その建物は趣に満ちたもので,中庭を構成する建物の壁は遺跡のようであり,時の流れをしっかりと感じさせる。パフォーマンスは普段は喫茶店として使用されている倉庫跡のような場所と,遺跡のような壁に取り囲まれた中庭で行われた。

今回のearth songにおいては,たしかに様々な分野のアーティストが参加して,様々な形態のパフォーマンスを繰り広げた。その多様性の中に共通していたのは,「機械と音」を表現の核に据えていたことであり,「音」に対するアプローチの仕方に西洋芸術音楽(“クラシック”音楽)及びその系列上にある“現代音楽”とはあきらかに一線を画していたことである。

私は“現代音楽”の領域で長く作曲活動を行ってきたが,最近はこの領域から離れつつある。この領域における「偏見」と「建前」の多さにうんざりしているからである。

“現代音楽”において「機械と音」というカテゴリーで思いつくのは「具体音楽」や「電子音楽」あり,「ライブエレクトロニクス・ミュージック」である。それらは「音による構成美」を目的とする音楽であり,「構造的聴取」をその受容の理想とする音楽である。その点において“現代音楽”は西洋芸術音楽の系列状にある。ただしそれが“現代音楽”であるのは,非調性音楽であるという一点にある。

earth song でのパフォーマンスによる音楽は非調性音楽ではあるが,「音による構成美」を目的としていなければ,「構造的聴取」を前提ともしていない。その意味ではあきらかに“現代音楽”ではない。当日に提示された7つの作品を一括して論じるのは乱暴との誹りを免れないが,あえて言えば,そのほとんどにおいてまとまりのないパフォーマンスが漫然と続いているかのような印象を与え,音の進行に秩序を聴き取るのが困難であることが多かった。西洋芸術音楽の観点から言えば欠点としてしか言えないようなこれらのことが,じつは,新鮮なアート体験の時間を私にもたらしてくれたのである。

最初に聴いたのが石井栄一のサーキット・ベンディング(Circuit Bending)を用いたパフォーマンスである。サーキット・ベンディングとはおもちゃなどに組み込まれている電子回路を改造して独自の電子楽器を創り出し,それを用いて様々なノイズを発生させて音楽を形成することである。テーブルの上におもちゃを改造した様々な電子楽器が並べられ,それを中学3年生の石井がさまざまにいじくって音を出していく。その様子はテーブルに近づいて見ることが出来るだけでなく,スクリーンに大きく投影されたものも見ることが出来る。音楽的には様々なノイズの羅列で,はっきり言って音楽的感興は乏しい。しかし改造されたおもちゃを,それを改造した少年自身が聴衆の目の前でいじくって鳴らしている事実そのものが,音を身近に感じさせた。そこに生まれた音の触感というべきものが,ノイズを好ましいものに思わせてくれたのである。

堀尾寛太のパフォーマンス用のオブジェは,一見したところサーキット・ベンディングに似て見える。決定的な違いは,サーキット・ベンディングが既成のスピーカを必要とするのに対し,堀尾のパフォーマンスは既成のスピーカを拒否する。また,サーキット・ベンディングにおけるおもちゃの形状が多様であるのに対し,堀尾のパフォーマンス用のオブジェは形状が制限されている。それらはボウル状か空き缶状をしている。それ以外の形状のものはただひとつ,アルミの急須がアクセントとして取り付けられているだけである。形状の制限は「作用の伝達」を考慮した結果である。

電動モーターによって磁界を生じさせ,ボウルや空き缶の中でパチンコ玉のような金属片を動かし,その結果として聞こえてくる微細な音が作品の根幹をなしている。金属片の動きは次々と伝わっていき(作用の伝達),時には光の変化をつくり出し,それが次の金属片の動きに変化を与えたりする。それらの動きそのものも微細である。堀尾はオブジェに時々手を差しのべて動きを調整する。聴衆は堀尾とオブジェの周りを取り囲んで,それらの微細な動きを注視し,微細な音に聴き入ろうとする。それらのことが自然と誘発される。私はジョン・ケージの《4’33”》を思い出したが,ここには《4’33”》に潜むシニカルな押しつけはない。

藤岡定の《Cubie》はパズルゲームに没頭する感覚で音楽を作曲・演奏できるソフトウエア・アートである。スクリーンにはルービックキューブを思い起こさせる正六面体が映され,それぞれの平面は8×8文字のパズル画面のようになっており,そこに文字(アルファベット)を打ち込んでいくことで演奏していく。文字ひとつひとつに機能が振り分けられており,それらの組み合わせで音楽をつくっていく。機能についての理解の深度とキーボード操作の慣れが演奏をより高度なものにしていく。しかしユニークなのは仮にでたらめに文字を打ちこんでもそれなりに音楽を形成してくれる様にシステムが組まれていることである。そのことによって,全くの初心者からでもこのソフトウェアをたのしむことが出来,上達すればさらにたのしみは増加するようになっている。

今回は藤岡自身によるパフォーマンスであり,さすがにその演奏は手慣れたものであった。音楽の有り様が画面の文字の動きによって確認できるようになっており,一見複雑な音のテクスチャや音の推移が,目の助けを借りてよく理解でき,音を聴くことの集中をうながした。音楽自体も今回のearth songの中では音楽的感興がもっとも豊かなものであった。

orologioのパフォーマンスは六弦琴・仙石彬人・太田泉の3人のユニットによる。電気的変調を伴う撥弦楽器と電子的ドラムによる音楽に,OHPによる映像がからむものである。このパフォーマンスは郵便局の中庭で,つまり野外で行われた。あたかも遺跡を思い起こさせる古い建物の壁を背景に,音楽はゆったりとした変化がひとつの持続を形成して,「音の帯」のような感じを抱かせる。その背後の壁には細かい水の粒子がちりばめられたようなOHPからの映像が,中庭全体を取り囲むように映し出される。その映像は壁本来のテクスチュアと相俟ってあたかも動く“抽象絵画”のようである。この演出は通俗的な意味でも非常に美しく,音楽そのものの性格とも相俟ってまさに時を忘れさせた。

なお,今回のearth songでは他に大脇理智,Robert Mitchell,heirakuGのパフォーマンスが提示された。

今回のearth songでのいずれの作品においても「機械と音」という共通項の他に,「耳」と「眼」の両方に働きかける作品という共通項があった。本稿のはじめの方に「まとまりのないパフォーマンスが漫然と続いているかのような印象を与え,音の進行に秩序を聴き取るのが困難である」と述べたが,これは「耳」だけを取り出して論じた場合にそうなるということであり,すでに個々の作品において指摘したとおり,「眼」を伴った場合,それが打ち消されることが多かった。

西洋芸術音楽では音楽を音だけで,つまり「耳」だけで鑑賞することが当然の前提とされているが,それは虚構である。作曲は楽譜という音の視覚化装置で行われ,構造的聴取は音を楽譜や形式把握のための図形に置き換えて為されているのである。“現代音楽”の下位ジャンルとしての電子音響音楽のコンサートにおいて,聴衆を真っ暗な空間に押し込め,スピーカから出てくる音だけに耳を集中させることを強要するような仕組みは,「音による構成美」が音楽であるという建前がなせる技であり,また「構造的聴取」が耳だけでなされるという偏見にもとづく営為である。

今回のearth songでは,最初のパフォーマンスが14:30に始まり,最後の7番目のパフォーマンスが20:00過ぎに終了した。途中にいずれも長い休憩があって,その間,お茶を飲んだり,おしゃべりをしたり,近くを散歩したりして過ごし,その間に耳や目のリフレッシュを行う。そのためには現役最古の郵便局という空間のレトロ感は,その中庭の雰囲気も含め,非常に有効であった。“現代音楽”のコンサートでは「耳の愉悦」とは縁遠い非調性音楽を,2時間ほど連続して聴かせ続ける。それがどのような効果を及ぼすかについての自覚のないコンサートイベントがあまりにも多い。

今回のearth songでもうひとつ特徴的だったのは,ひとつのパフォーマンスが終わる度に,聴衆がパフォーマーとその楽器や機器を取り囲み,パフォーマンスの仕組みなどについて熱心に質問していたことである。それには,身近な「機械と音」を素材にしていたことで聴衆の素朴な興味が惹きやすかったこと,パフォーマーとの距離感が近い会場そのものの構造,普通の音楽らしくない音楽に対する聴衆の好意的なまなざしというようなものがあった。“現代音楽”においてはそのようなことはない。“現代音楽”としての電子音響音楽の演奏会において,その製作システムに大変な工夫が為されていると予測されるような場合でも,聴衆が作曲者や演奏者を取り囲んで質問を仕掛けるということは稀である。

“現代音楽”は音楽史の重みを変に意識し,建前や偏見に支配されている。ただ,未だにアカデミズムを支配しているということだけでプライドだけが高く,その結果,聴衆とのコミュニケーションンを無視するようになっている。そうしたことを,自戒を込めてあらためてつよく考えさせてくれるものが,今回のearth songにはあった。